崩壊

 ひどく、蒸し暑い夜だった。
 江梨奈は、大学三年目の夏を一人暮らしのアパートで過ごしていた。
 あまりの暑さに眠れず、寝返りをうつ。
 クーラーは今日、壊れてしまった。
 電気屋が来るのは明日だ。

 寝転がっているだけでじっとりと汗ばむ室内。
 しかし、いくら暑いからといって、江梨奈はベランダ側の窓を開ける気になれなかった。
 最近、近くのアパートで、二階にも関わらずベランダから空き巣が入ったという。
 ここは三階だが、そんな話を耳にしては、窓全開で寝ることに抵抗を感じてしまう。
 とはいえ、閉め切った部屋の寝苦しさは、頂点に達していた。
 ・・・せめて、キッチンの窓を開けよう。
 アパートの廊下に面したキッチンの窓には、鉄格子がはまっている。そこなら開けても平気だろう。
 薄いタオルケットをよけて、江梨奈は体を起こした。
 暗さに慣れた目に、家具や家電がぼんやりと浮き上がって見える。
 一人暮らしの狭い部屋は、真っ直ぐ歩けば、ほんの五、六歩でキッチンのシンクに突き当たる。
 その左は玄関、右側はコンロと冷蔵庫だ。
 ぺたぺた、と足音を響かせ、江梨奈はシンクの前に立った。
 その上の、すりガラスの窓枠に手をかけ、横に引いた。
 普段は閉め切っている窓の向こうに、鉄格子と薄暗い廊下が現れる。
 案の定、ぬるい空気が少し動いただけで、涼しい風は期待できそうにない。
 小さく溜息を零しながら、鉄格子の隙間から左に視線を移して、江梨奈は凍りついた。

 ドアの前に、見知らぬ男がいる。
 思わず悲鳴を上げそうになり、江梨奈は自分の口を抑えた。
 男は俯いたまま、幅の狭い廊下の、外側の手すり近くにじっと立っている。
 江梨奈が窓を開けたことに気づかなかったのだろうか。
 しかし、この近さで?
 震えながら、江梨奈は後ずさった。
 足音を押し殺して部屋に戻ると、隅に転がっていた携帯を握り締める。
 自分の力で追い払えるとは、到底思えない。
 あれが、道に迷っただけの酔っ払いならまだいい。が、ストーカーや凶器を持った泥棒だったら────
「け、警察・・・」
 もたつく指で110番を押す。もどかしい間があって、ようやく応答があった。
『・・・・・・こちら、警察です。どうされました?』
「あの、部屋の前に、知らない男の人が立ってて・・・」
『落ち着いて、住所を教えてください』
「坂井市、新野町・・・です」
『では、もう一度、外を確認してください。男はまだいますか?』
「は、はい・・・」
 恐る恐る、江梨奈はキッチンの窓から外を見る。
 ────男は、先程と同じ場所に立っている。
「います。まだいます」
 足音を立てないように部屋に戻り、小声で電話口に向かって話す。
『最寄の交番から、すぐ警察官を向かわせます』
「あの、お願いします」
『そのまま部屋から動かずにお待ちください』
 ・・・電話が切れた。
 どうしようもない心細さに、江梨奈は固く目を瞑り、自分の体をぎゅっと抱きしめた。



 数分後、アパートの前に車が止まった気配がした。
 恐る恐るベランダから下を覗き見る。静かに停車したパトカーから、二人組の警官が下りてきた。
 廊下の奥から近づいてきた足音が、家の前で止まる。
「誰もいないですね」
「逃げたのかな」
 ドア越しに、小声の会話が聞こえた。
 男はいなくなってしまったようだ。
 安堵すると同時に、ドアが軽くノックされる。
 江梨奈は気まずい気持ちで玄関へ向かった。
 警察に無駄足をさせてしまったことと、自分が過敏に反応し過ぎたかもしれない、と、いう思いに駆られ、申し訳なくなる。
「今、開けます」
 ドアノブに手をかけながら、江梨奈はいつもの習慣で覗き穴を覗きこんだ。
「ひっ・・・」
 円形に歪んで見える、薄暗い廊下。
 二人の警察官の背後。あの男は、闇に沈むように立っていた。
「い、やぁあああっ」
 悲鳴を上げて、江梨奈は後ろに倒れこんだ。
 ぎょっとした警察官の声が響く。
「どうしました!?」
「います、いますよっ」
「はぁ・・・?」
「う、後ろっ! おまわりさんの後ろに、男がっ・・・」
 顔を見合わせた警察官は、ひそひそと小声を交わした。
「・・・いたずらか?」
「どうでしょう・・・?」
 一人が気を取り直して、扉に向かって声をかける。
「僕たち以外に誰もいませんよ。とにかくここを開けてください」
 江梨奈は、震える膝に力を入れた。キッチンの窓からおずおずと外を覗く。
「いや・・・何で」
 やはり、男はいる。
 警察官には、あの男が見えていないようだった。
 ドアに近づくことさえできない江梨奈に、警察官は痺れを切らしたようだった。彼らの態度が威圧的なものへ変わる。
「ここを開けなさい!」
「いや、いや・・・」
「悪戯で警察に電話したのか? だから開けられないのか」
「ちが・・・違います」
 警察官の苛立った声に、江梨奈はたじろぐ。
 それでも体は動かなかった。ドアを開ければ、恐ろしいことが起こりそうな予感がした。
「早くここを開けなさい」
「・・・っ」
 江梨奈は耳を塞ぐ。・・・・・・怖いこわいこわいこわいコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイ

 ────暫くして、警察官はドアを開けさせるのを諦めたようだった。
「仕方ありません、戻りましょう」
 一人が促すと、もう一人が舌打ちする。
「二度と悪戯電話なんかするんじゃないぞ」
 捨て台詞の後、ドアの前から二つの足音が遠ざかっていく。



「江梨奈、江梨奈!」
 ドアの外から、母親の声が聞こえた。
 あれから数日、江梨奈は一歩も外へ出ていなかった。
 バイトにも顔を出していない。
 心配した友人が様子を見に来ても、ドアは決して開けなかった。
 おそらく、その友人から家族に連絡が行ったのだろう。

「ここを開けなさい、江梨奈!」
 切羽詰った母親の声。
 散乱した缶詰やレトルトの食事。
 買い物にも行っていない。
 床を這うようにして部屋と往復した冷蔵庫。しかし、中の食べ物は既に尽きていた。
 それでも、江梨奈は扉を開けられなかった。
 ────誰にも、あの男は見えない。
 男は、昼も夜も扉の前にいた。
 あれは人間じゃない。

ガチャリ

 鍵の回る音がした。はっとして玄関を見る。
「・・・無理を申し上げてすみません」
「いいえ、お嬢さんに何かあったら大変ですしね」
 大家の奥さんの声だった。母親が大家に頼んで鍵を開けさせたのだ。
「だめ、開けちゃだめ──────!!」
 足がもつれそうになる。転びそうになりながら駆け寄った江梨奈の手が、ドアノブにかかる寸前。
 向こう側から扉が押し開かれた。
 ぐらり、視界が歪む。
 廊下から室内を覗きこむ母親。人の良さそうな大家の女性。
 逆光で二人の表情はよく見えない。
 なのに。
 その後ろにいる男に顕れた変化だけは、なぜかはっきりと見えた。
 俯いたまま、男は ニタリ と笑った。



「────・・・おそらく、熱中症と脱水症状の併発で、意識が混濁していたんでしょう。
点滴で良くなると思いますが、この時期多い症状です。今後も、気をつけてあげてくださいね」
「あの、本当にありがとうございます」
 ・・・すぐ近くで、母親と知らない男性の会話が聞こえた。
 ゆっくりと重い瞼を持ち上げる。白い天井が目に入った。
「ああ、お嬢さんが目を覚まされましたね」
「・・・江梨奈、良かった。心配したのよ」
 緩慢な動作で横に顔を向ける。今にも泣き出しそうな母親が、こちらを覗きこんでいた。
 その後ろに、白衣を着た壮年の男性が立っている。
 違和感を覚えて、江梨奈は自分の左腕に目をやった。
 上から垂らされた、点滴の細いチューブが関節の内側に刺さっている。
「・・・お母さん、ここ、病院・・・?」
「そうよ。あなた、急に倒れたから救急車で運ばれたの。ねえ、気分はどう?」
「頭が、少し重い・・・」
「栄養と休息をしっかり取れば、すぐ回復しますよ」
 白衣の医者は微笑を浮かべ、「また後で様子を見にきます」と言い残し、病室を去った。
「全く、あなたったら、熱中症と脱水症状ですって。
一人暮らしなんだから、自己管理くらい自分でできなくちゃだめよ」
 ぶつぶつと小言を並べる母親に、江梨奈は喘ぐように問うた。
「私の部屋の前にいた、男の人は・・・?」
「男の人? 誰の話をしてるの? そんなのいなかったわよ」
「いたの。いたのよ」
 怯えた様子で必死に訴える娘に、母親は諭すようにゆっくりと説明した。
「あのね、江梨奈。熱中症とか脱水症状にかかると、意識が混乱して、幻覚を見ることがあるんですって。
さっきのお医者さんが、そうおっしゃってたの。あなたきっと、そのせいで変な幻を見たのよ」
「まぼろし・・・?」
「そうよ」
 母親は頷くと、「それより、何か欲しいものある?」と尋ねた。
 江梨奈は小さく首を振る。
「何も・・・少し、眠い、かな」
「そうね、ゆっくり休みなさい」
 母親に言われて、軽く両目を閉じた。
 点滴の影響か、あるいは気持ちが緩んだせいか、急速に眠気に襲われる。
 同時に、砂でできた像のように、記憶の中にあった男の輪郭が崩れていく。
 こうして気分が落ち着くと、やはり医者の言う通り、あれは脳が見せた幻覚なのだろうという気がした。
 吸いこまれるように深い眠りに落ちていく。
 やがて、静かな病室に穏やかな寝息が零れ落ちた。



 翌日の昼には、江梨奈は退院した。
 その後、数日実家に滞在し、すっかり元気を取り戻した江梨奈は、重い腰を上げて隣町の自分のアパートに戻ることに決めた。
 そろそろ夏休みの課題に着手しなくては間に合わない。
 課題に必要なデータは全て、アパートのPCに入っている。だから、いやでも戻らざるを得なかった。

 さんざん迷惑をかけた母親に、ここまで付き添ってもらうのはいかにも子供っぽい気がして、江梨奈は一人アパートに前に立っていた。
 意を決して、階段を上る。
 三階に辿りつき、恐る恐る廊下を覗くと────部屋の前には、誰も、何も立っていなかった。
 やはりあれは幻覚だったのだ。
 安堵して、部屋の鍵を取り出し、ドアノブの鍵穴に差しこむ。

ガチャリ

 鈍い金属音とともにドアが開く。
 靴を脱いで上がった江梨奈は、散乱した周囲を見回して溜息をついた。
 まずは掃除から始めなくては。
 1DKの狭い居室で荷物を下ろす。・・・ふと、背中に視線を感じて振り返った。

 ベランダに面した窓の手前。
 あの男が、すぐそこに立っていた。
 足元が崩れていくような感覚。
 理性が軋んで弾ける。

 俯いたまま、男は奇妙に歪んだ微笑を浮かべた。
 血の気のない薄い唇が無機質に動くのを、江梨奈は悪夢でも見ているかのような心地で眺めた。

『もう逃げられない』

 続く、哄笑。
 神経を嬲るような声が反響する脳内で、江梨奈は日常の崩壊を覚った。


<END>


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