空降る〈Colorful〉

あらゆるものに優劣が付いて回る世の中で、芸術もその例外にはなりえない。
陸上競技や水泳のタイムのように。
あるいはそれ以上に、残酷に立ちはだかる壁が厳然と存在する。
────それを痛感したのは、大学二年の春だった。

絵の具を溶く油の匂い。
モチーフを前に黙々と制作に取り組む、ツナギを着た学生たち。
そこで、僕は彼女の絵を初めて見た。



* * *



課題が時間内に終わることなんてほとんどない。
そもそも、絵に終わりなどない。
どこで筆を置くかは自分の裁量だ。
けれど課題には締め切りがある。
だから徹夜することもしばしばだ。

制作に行き詰まり、人気のない屋上で一人煙草を吸う。
今日は日曜。
課題提出は火曜。
間に合うんだろうか。

「・・・同じだね」
「ぅわっ!」
「あ・・・・・・ごめん」

彼女だった。
突然の声に驚いて椅子から落ちそうになった僕に、申し訳なさそうに謝る。

「いや、いいけど」

正直、自分から彼女に話しかける勇気なんてまるでなかった。
だから、彼女から話しかけてきたことに必要以上にうろたえていた。
思わず無愛想になってしまった自分の声に舌打ちしたくなる。

「・・・で、同じって?」
「煙草」

細い指がさし示した白い箱。
そう。 同じ銘柄。
知ってたけど知らない振りをして、答える。

「ああ・・・そうなんだ」
「うん」

始まりはそれだけ。
そして、その後も僕たちは友達以上の関係にはならなかった。
────多分、僕は怖かったんだと思う。



・・・彼女はいつも控えめに笑った。
友人に話しかけられたら、明るく答える。
ただ、時折ふっと翳りのある表情を見せる。
たまに、屋上の隅の煙草を吸うスペースで見かける時は、大抵、一人でぼんやりと空を見上げていた。
人数が少なくて肩身が狭い同学年の男どもとじゃれあいながら、僕の意識はいつもそんな彼女の方を向いていた。



* * *



バケツをひっくり返したような、土砂降りの雨の日。
何とはなしに、屋上を覗いてみる。
僅かに突き出た出入口の軒先で煙草を吸おうとして、ふと顔を上げた先に彼女が倒れていた。
血の気が引く、とはまさにこのことだ。

「・・・大丈夫か?」

駆け寄ると、彼女は閉じてた目を開いた。
どうやら、彼女は意図的に雨に濡れていたらしい、とそこで初めて気がつく。
ただ、大の字に寝そべって、全身で雨を受けていた。
艶のある黒髪が、しっとりと濡れて白い頬に張りついている。
いさぎよく直線的に切られた前髪や襟足が、今日は乱れて屋上の床に、額に散らばっていた。
病気とか怪我じゃなくてほっとする。
その反動で咎めるような声音になったのは仕方ない。

「・・・何、やってんの」

彼女はかすかに笑った。

「別に。 最近雨に濡れてないと思って」

そして僕の手元に目を移す。

「煙草、濡れちゃったかもね。 ごめん」
「・・・・・・いいよこんなもん。 それより、風邪引くんじゃねえの?」
「今日の雨はあったかいから平気」

そういう問題でもないんだけど。
彼女は再び目を閉じる。
・・・ためらった後に、僕も彼女に倣うことにした。
隣に体を投げ出して瞼を閉じる。
瞼の裏の暗闇の中で感じる、降りそそぐ雨粒はたしかに温かかった。
そうしているうちに、雨は徐々に小降りになっていく。

「あ、虹」

呟きに目を開く。
厚い雲の隙間から陽が差し、茜色に染まりかけた空に大きな虹の橋がかかっていた。
その輪ををくぐるように一羽の鳥が悠然と飛んでゆく。
僕らはそれを、ただ静かに見守る。
束の間、彼女が見ているように世界を見た、そんな気がした。



* * *



大きなキャンパスを家に置けない学生たちは、自然と大学の割り当てられた部屋で長時間過ごす。
彼女も家には寝に帰るだけ、という生活だったと思う。
にしても、他の学生とはのめりこみ具合が違っていた。
その横顔は鬼気迫るものがあり、山篭りの修行僧も逃げ出すんじゃないかと思うほどだった。
寝食を忘れて長時間集中を保ち続けるその精神力には舌を巻く。

そして、しなやかな手が生み出す絵は僕にとって羨望そのものだった。
使っている道具は似たようなものなのに、大学というこの狭い空間で、彼女が、彼女だけが特別だった。

筆を走らせるたびに新しい世界が切り開かれていく。
絵の具はまるで生きているかのようにキャンバスの上を踊る。
色そのものが光を帯びて、そこに息づく。
赤が、青が、緑が。 黒でさえも。
僕は生まれて初めて、無機物に生命が宿る瞬間を目の当たりにした。
いつかこの手で実現したいと焦がれていた理想、そのままに。
それは、長年見ていた夢が悪夢に変わる瞬間でもあった。
────自分があの領域に到達することは絶対ない、と否応なく悟らされるからだ。

だからだろう。
僕が彼女に友達として以上、踏み込めなかったのは。



・・・しかし、彼女は自分が評価されることに困惑してるようだった。
教授がその才能を手放しで褒めるほど、その笑顔は寂しげな影を濃くしていった。



* * *



いつもの喫煙スペース。
その日は、僕と彼女二人だけだった。

「ここには    ない」

隣で煙草を吸う彼女の小さな声。
ゆっくり顔を上げると、彼女の、潤んだ黒目は憂いを浮かべて揺れている。
はっきりとは聞こえなかった。
それを確かめようとして聞き返す。
すると彼女はゆっくり首を振り、「絵を描いてるだけで幸せなんだけどね」 とそっと笑った。



その週に提出された彼女の作品は、ひたすら真っ青な空の絵だった。
どこまでも透明な瑠璃色の空。
藍も薄青も、すべての青を飲みこみ、創造した者のありとあらゆる感情を宿した空。
そして、胸が痛くなるほどの静謐を湛えて、そこに在った。

与えたテーマから大きく逸脱した作品に、教授は困惑顔でどう評価すべきか迷っていた。
見守る学生たちの間では、感嘆のため息が漏れる。
提出者はここにいない。
いたたまれず、部屋を後にした。
予感があった。
もう、彼女に会うことはない、と。
それはその通りになった。 その場にいた誰もが、二度と彼女と会うことはなかった。
彼女は週の終わりに退学届を出した、と噂で聞いた。



────大学を卒業後、僕はゲーム会社に就職した。 製品の背景やテクスチャの作成に携わっている。
もう、絵は描いてない。
絵を描いてた時は、自分のサイズにぴったり合う服を、広大なこの世界で必死に探してるみたいな焦燥に囚われてたのに、描くのをやめた途端、その感覚はあっさり消えてしまった。
好きなことが自分を追い詰めるなんて皮肉な話だと思う。

溢れる才能に恵まれた彼女の場合はどうだったんだろう。
例えば僕が、彼女を支えられてたら何か違ったんだろうか。
でも、あの頃の僕は自分に精一杯で、くだらないプライドの塊で。
彼女の小さな悲鳴に気づかない振りをした。 きっと、他の皆も同じだっただろう。
そんな周囲の暗い感情を飲みこんでゆくには、彼女はたぶん、繊細すぎた。

地上まで染めてしまいそうな瑠璃色を見上げて思う。
彼女はまだ、絵を描いてるんだろうか。
あの狭い空間から、閉塞感から解き放たれて、自由に。
そうならいいな、と思う。
もし、そうでなかったとしても。 誰かと心から笑っててほしい。
彼女の笑顔は、とても綺麗だから。


<END>

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