蝶々の庭 前編

転げるように廃墟を飛び出した男たちが、街へと逃げ帰ってゆく。
だから、くすくす笑う声は誰の耳にも届かなかった。
声の主である少女は、埃の積もった窓辺から外を見下ろしていた。
美しく整った横顔は青白く、生気を感じさせない。
男たちの姿が視界から消えた後、彼女は滑るように階段を降りた。
ワンピースの裾から伸びた足が、床の上をふわりと浮いたまま移動する。

建物裏手の温室に入り、少女は満足そうに辺りを見回した。
骨組は傾ぎ、外と中を隔てる硝子が幾つも割れている。 荒れた屋敷にふさわしい様相だ。
しかし花々は、雑草の浸食に耐えて今も美を競っていた。

「この家は壊させないわ」

呟いて、薄紅の薔薇をひと撫でする。
その時、ひらひら舞う何かが目の前の花弁に舞い降りた。
優美な客人に 「ようこそ、私の庭へ」 と微笑む。
静かに羽を上下させる黄色の蝶に、ワンピースの裾をつまみ上げた少女は恭しく頭を垂れた。




* * *




「まったく・・・」

陰鬱な廃屋を見上げた神父は、若々しい顔に憂いを浮かべて溜息をついた。

発端は昨日の午後、とある工事の責任者が教会に駆けこんできたことに始まる。
彼が担当している工事は、郊外に建つ廃屋の取り壊しだそうだ。
事業に失敗した豪商が、借金の形に差し出したという、この物件。
更地にするという条件で、最近ようやく売却の話がまとまったらしい。
しかし、屋敷を壊そうとすると必ず不気味な現象が起こり、工事が中断してしまうと言うのだ。

怯えた男に半泣きで縋りつかれ、否やと言えない老神父は 「何とかする」 と約束した。
・・・けれど現場に出されたのは、教会に配属されたばかりの見習い神父だった。
「何事も経験」 とは老神父の言い分だった。




「・・・聖水でも撒きますか」

軋む門を押し明け、雑草だらけの敷地に足を踏み入れる。
懐には、たっぷりの聖水、大小合わせて5つほどの十字架、銀のナイフ、ニンニク。
念のため、悪霊に効きそうなものは一通り用意した。
ニンニクは少し違うような気もするが。

ギギギ、と音を立てる扉を開けば、背後から差す光が薄く舞う埃を浮かび上がらせた。
荒れてはいるが、元は豪華な屋敷だったのだろう。
薄明かりに見える壁や柱の装飾には、何となく当時の様子が窺えた。
・・・・・・と、無人のはずの室内から、忍び笑いが聞こえた。
同時に、横倒しになった丸いローテーブルが、ひとりでに転がり始めた。

ジャーン!!

ぼろぼろのピアノから不協和音が鳴り響き、神父は首を竦める。

「なるほど、こうやって人を驚かせてきたのですね」

呟いた時、部屋の隅を影がよぎった。
影が消えた廊下の方から気配を感じて、そちらに向かう。
その周囲で壁や床がカタカタと震えた。
ふと嫌な気配を感じ、神父はひょいと壁際に身を寄せた。
ガシャン!! ・・・天井から落ちてきた燭台に、彼は整った眉を顰めた。
構わず歩いた先で、突き当りの扉を押し開ける。
明るい温室に足を踏み入れた彼の頭上から、刺々しい声が降り注いだ。

「・・・出てって。 ここは私の庭よ」

目を上げると、青い天鵞絨(びろうど)のドレスを纏った少女が逆さに宙を浮いている。
その体の向こうには、温室の屋根とガラス越しの空が透けて見えた。

「あなたが主ですか。 こんなにはっきり見えるのも珍しいですね」

あっさり警告を無視した男に、少女は美しい顔を怒りで歪める。
────────バチバチバチッ!!
瞬間、神父を取り巻いて激しい火花が弾けた。

「・・・・・・申し訳ないのですが、私にこの手の脅しは効きません。 慣れてますから」

青い瞳が驚愕で見開かれる。
パチパチと残り火を纏わせたまま、男は平然と立っていた。

「あなたは幽霊なんでしょう。 つまり、もう死んでる」

少女の黒髪が逆立ち、青い火花が再び爆ぜた。

「まあ、怒らずに聞いてください。
 あなたはこの世に未練や迷いがあって、天へ帰る道が分からなくなっています」

少女は、苛立たしげに温室の中を飛び回る。 まるで、狂った蝶のようだ。
神父は苦笑しながら続けた。

「だから、あなたが天国に帰れるよう、お手伝いをして差し上げます。
 中には、話を聞いてあげれば満足して天に帰る方もいらっしゃいますから」

少女は、ふっと静止した。
その青い眼差しと、「迷える魂を導くのも私の役目です」 と笑う神父の鳶色の瞳が交差する。

「あなた、お名前は?」
「・・・ジゼル」

思わず返事をしてしまった少女は、舌打ちしたくなって俯いた。
が、男の気配が変化したように感じて面を上げる。
しかし目の前にあったのは先程と同じ作り物めいた笑顔で、少女は違和感を気のせいだと片付けた。

「では、ジゼル。 あなたが感じる不満や恨みの全てを私が受け止めて差し上げましょう。
 どうぞ、御遠慮なく」
「・・・話すことなんかないわ」
「・・・ジゼル?」

ふいっと姿を消した少女は、彼を無視することに決めたらしい。
しばらく佇んでいた神父は、その日は諦めて温室を後にしたのだった。




翌日。

「いるんでしょう」

何もない空間に話しかけながら、神父は再びこの廃屋に足を踏み入れた。
主は息を潜めているらしく、室内はシンと静まり返っている。
彼は、思案顔で温室へと向かった。 そして、その中で最も目を惹く大輪の薔薇に、手をかけた。

「出てこないと、これで花占いしちゃいますよ」
「やめてよ!」
「・・・ちゃんと、聞こえてたんじゃないですか」

突如出現した少女に、笑みが向けられる。
その顔を憎たらしいと思いつつ、少女は冷たい視線を浴びせかけた。

「・・・何しに来たの」
「だから、あなたの身の上話を聞きに」
「・・・話すことなんてないんだから、帰って」
「帰りません」
「じゃあ、ほっといて」
「無理です。 私の仕事ですから」

何を言ってもニコニコと笑って返す男に脱力した少女は、がくりと肩を落としてしまった。




「生きていた時のことは覚えていますか?」
「教えない」
「天国に行けば、ご家族と再会できるかもしれませんよ」
「・・・あなたに関係ないじゃない」
「わざわざ足を運んだのに」
「頼んでないし」
「つれないですよー」

図々しく人の領域に居座る男がわざとらしく嘆く。
知ったことではないと、少女がそっぽを向いた、その時。

ぐーーーー。
・・・盛大な腹の虫が鳴った。

「・・・」
「実はですね・・・」

ふわふわと漂いながら胡乱な視線を寄こす幽霊に向かって、神父はコホンと咳払いした。

「・・・屋敷の取り壊しが無事済んだら、業者の方から寄付がいただけることになっているのです」
「・・・あっそう」

立ち去りかけた少女を、「どうか、最後まで聞いてください」 と神父は引き留める。

「聖職者もパンを食べなければ死んでしまうのです。 残念ですが、自然の摂理です」

男は整った眉を下げ、溜息をついた。
小さな街の教会は、貧乏だ。
人々の信仰心に陰りが見え始めた昨今、寄付金は年々減る一方。

「あなたが無事、天に帰ってですね。
 私たちの食卓にチーズの一欠片でも加われば、全員が幸せというものです。
 ・・・とはいえ、あなたを無理にどうにかしようとは思っていません。
 いい男と世間話をしていれば、寂しさも紛れて未練などなくなるかもしれませんし?」

しれっと言った男は、確かに秀麗な顔立ちをしている。
(でも、自分で言うかしら普通・・・)
内心突っ込んだ少女は、 「変なのに取り憑かれた・・・」 と盛大な溜息を零したのだった。




翌日から、この若い神父は毎日ジゼルの元にやってきた。
姿を見せずにいると 「花を引っこ抜きますよ」 と脅すので、彼女は渋々彼の話に付き合う。
その中身は大抵、上司である老神父がぎっくり腰で大変だとか、ボケた振りして自分のパンを狙うとか、どうでもいい話ばかりだ。
なのでジゼルは男の話を適当に聞き流す。
そして、夕刻を知らせる鐘が聞こえると、神父は去って行く。
そんな日々が繰り返された。

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