蝶々の庭 後編

「『ジゼル』 ・・・バレエの演目にありますよね」
「知ってるの?」

吸い込まれそうなほど青い空を、泳ぐように流れてゆく雲。
それを見上げる若い神父の呟きに、思わず聞き返す。
「すぐに飽きるだろう」 と思っていた彼は、あれから毎日ここを訪れている。

「あなたもご存じなんですね。 『ジゼル』 を見たことが?」
「・・・ない。 けど嫌いよ」

なぜ、問われて、少女はしまった、という顔になった。
自分の事など話すつもりはないのに。
だが、気が遠くなるほど退屈で孤独な日々に突然現れた、この変な男の相手をするのは、嫌ではない。
だから、こんな風に乗せられて自分の話をしてしまう時も、度々あった。

「・・・私の名前は、そこから取られたの。
 両親揃って 『ジゼル』 見に行った時、母のお腹にいた私が動いたんですって。
 だから、私の名前はジゼル」

話し出した少女は、そこで眉を顰めた。

「皮肉な話よ。 私もバレエの主人公みたいに幽霊になっちゃったんだから。
 どうせなら、しぶとそうな 『カルメン』 とかの方が良かった」
「笑えない話ですね。 でも 『カルメン』 だったら刺されて死んじゃいますよ」

もっともらしく相槌を打つ神父の目は、明らかに笑っている。
睨んだ少女に、口調だけは真面目に彼は続けた。

「私は小さい頃、母に連れられて見たことがありますよ」
「『ジゼル』 を?」
「はい。 私はもともと、いいとこのお坊ちゃんだったんです」
「・・・どーせ、その捻じ曲がった性格で家を追い出されたんでしょ」

その時、ジゼルは男の顔にほろ苦さがよぎるのを見てしまった。
だが、彼女がためらう間に、神父が先んじて口を開いた。

「・・・あなたには、『ジゼル』 の方が似合うと思います」
「・・・・・・初めて言われたわ、そんなの」

謝る時機を逃してしまった少女は、気まずさと照れを隠してそっぽを向いた。




────神父がここに通うようになってしばらく経った頃。
すっかりこの温室に馴染んだ神父に、本日のジゼルはいつにも増して適当に返事する。
少女は綻び始めた白い薔薇に夢中だ。

「────朝から薪割りで骨が折れました」
「そう」
「明日は筋肉痛ですよ」
「かもね」
「今晩は雨が降りそうだな。 あ、雨は好きですか?」
「どーでもいい」
「・・・そんなにこの庭が大事ですか」
「もちろんよ。 私、ずっと病弱で家から出られなかったの。
 窓から見えるこの温室が唯一の慰めだったわ」

今度の問いにはきちんと答える。 ただし、目は黄色い薔薇に移っていた。
わざとらしいため息が聞こえたが、無視。

「今のあなたなら、街にでも、どこにでも行けますよ」
「・・・・・・無理だわ、そんなの」

さりげなく言われた言葉に、少女はようやく神父を見た。

「無理だと思うからここに縛られるのです。 あなたは幽霊だから、病気も何もありません」

青い目が瞬いた。 その時、風に乗って教会の鐘の音が微かに聞こえた。
「もう時間ですから明日にしましょう」 と、神父はすっと立ち上がった。
驚いたままの幽霊に彼はくるりと背を向けて、彼はいつものようにすたすたと去っていった。




翌日の午後、温室から連れ出された少女は、神父と並んで門の前に立っていた。
屋敷と外を隔てる境界を前に、ジゼルは何とか平静を取り繕う。
生前も死後もほとんど行ったことのない外の世界は、彼女を不安にさせる。
そもそも、自分は外に行きたいなんて一言も言ってない、とジゼルは思う。
だが、好奇心が湧き上がってくることも事実だった。

「・・・できる、と強く心に念じなさい。 あなたはもう何からも自由です」

穏やかな声に頷いて、恐る恐る足を踏み出す。
地面から少し浮いた体は、何の抵抗もなく開いた門の外側へ滑り出た。

「・・・出られた」
「言ったでしょう」

見開かれた薄青の目に映った男の笑みは、なぜかとても優しかった。




「すごい、こんなに人がいるのを見るのは初めてよ!」

街一番の賑やかな通りは、仕立て屋や靴屋、菓子屋が軒を並べ、たくさんの人で賑わっている。
興奮気味のジゼルは神父の周りを飛び回る。
かと思えば、屋台の串焼きが焼ける様子を興味津々で眺めたり、菓子屋のウインドーに張り付いたりと忙しい。
店先に並べられた色とりどりのお菓子に、少女は残念そうに呟いた。

「私、もうこんなの食べられないのね・・・」
「・・・涎がたれてますよ」
「たれてないし!」
「それは、失礼」

一人くすくす笑っているように見える神父を、すれ違った婦人が怪訝そうに見る。

「変な目で見られたじゃないですか」
「人のせいにしないでよ!」

憤慨する様子にもう一度くすっと笑い、神父は 「ついてきてください」 と促す。
少女は名残惜しく菓子屋を一瞥して、その背を追った。




「好きな物を選んでください」

行った先は、女性用の小物を扱う雑貨屋だった。
小声で指差された先に並ぶのは、色とりどりのサテンのリボン。
その神父に、背後から店主の声がかかる。

「ああ、あなたは街に来たばかりの神父様ですね。 このような店で買物とは珍しい」
「ええ、寄付のお礼を見つくろっているんです」

淀みない神父の言葉に、少女は眉を顰める。

「・・・嘘つき」
「あなたが天に帰れば寄付が入るので、嘘ではありません」

聖職者の男は、にっこり笑って嘯いた。




────店を出ると、街は夕暮れの色に染まり始めていた。
初めて見る風景なのになぜか懐かしさを覚えて、きょときょとと目を動かしながら神父の後に続く。
やがて、大きな広場に出ると、神父はそこに面した一際大きな建物を指さした。

「あれが、今日最後の場所です」

訪れたのは、彼が普段の勤めにいそしむ教会だった。
教会にもほとんど来たことがなかったジゼルは、その大きな尖塔に圧倒される。
広場に面した古い教会は、長い年月の間に風雨に晒されてどっしりとした威厳に満ちていた。

「ここの天辺から見える夕日が、とてもきれいなんです。 それをあなたに見せたくて」

嬉しそうな笑顔に、なぜかないはずの体温が上がった気がした。
けれど、少女はあえて 「ふーん」 と気の無い返事をする。
案内する神父の示した先で、二人は高みに続く長い螺旋階段を上っていく。

やがて、二人は薄暗い塔の階段を抜けた。
────眼下に広がる、オレンジの屋根と白壁の街並み。
そして、街の外には深い緑の森とのどかな田園が遠く続いている。
それらをやさしく包む太陽は西の空に傾き始め、たなびく雲が赤く染まり始めていた。
・・・彼が言うとおり、胸が痛くなるほどその風景は美しかった。
「すごく、きれいだわ」 と呟いたきり、少女はひたすら風景に見入っていた。

やがて、ぽつりと少女は話し出す。

「・・・父が事業に失敗したのは、私のせいなの。
 私の病気の治療に、すごくお金がかかったのよ」

坂を転げるように家が没落していくのを、死した少女はただ見ているしかなかった。
仲が良かった両親は次第に喧嘩を繰り返すようになり、やがて母は家を出て行った。
全てを賭けた最後の事業も失敗し、大きな借金を抱えた父は、家を売り払い街を去った。
けれど、あの家さえあれば両親がいつか戻って来てくれるような気がして、彼女はあそこをどうしても離れられなかった。

「・・・馬鹿よね」
「ご両親のことは、あなたのせいではありませんよ」

あなたのご両親はそうしたくてしたのですから、と優しい声がジゼルの耳を打つ。
少女の薄い水色の瞳から、涙が零れた。
気遣わしげにその様子を見ていた神父は、ややあって優しく諭す。

「・・・天国に帰りなさい、ジゼル。
 この世に留まりすぎると、永遠に天への帰り方を見失ってしまう魂もいます。
 今ならまだ間に合います」

微かに頷いた少女は、しばし迷った後、少しはにかんで最後の願いを切り出した。

「じゃあ・・・最後に一つだけ、我がままを聞いてくれない?
 ────嘘でいいから、愛してる、と言ってほしいの」
「・・・・・・。 ・・・私は神父ですよ。 女性に愛を囁けるような身ではありません」
「いいじゃない。 恋を知らない可哀そうな幽霊の頼みを聞いてくれても。
 雑貨屋の主には嘘をついたくせに、私にはできないの?」
「あれは嘘ではありません、少し事実を歪曲しただけで」
「それを屁理屈と言うのよ!」

どうにか口にした願いを無碍にされて、少女は憤慨する。
目を逸らした若い聖職者は、やがてためらいがちに口を開いた。

「・・・その言葉を言えば、私は神職にあるまじき罪を犯すことになります。
 それは小さな嘘ではなく、真実になってしまうから」

少女の薄青の目が見開かれる。

「私にいつか死が訪れて、全てから解放された時、できればまたあなたとお会いしたい。
 だから、その言葉は言えません。 ・・・だから、これで勘弁してくださいませんか」

彼は跪き、少女に手を差し出した。
ややあって、しなやかな手がぎこちなくそこに重ねられる。
実体のない指先に軽く口づけられた瞬間、ピリッと静電気が走った。
そこから流れこんできた感情の波長は、温かく彼女を包み込む。
幸せな感覚に心が満たされていく。
その瞬間、辺りは光に包まれた。

「────あ、忘れ物です」 と、神父は慌てて懐に手を伸ばす。
取り出した包みをそっと開けて、光の中心にいる少女に差し出した。
光に包まれたその表情はよく分からない。
けれど、手元のリボンと同じものが、いつの間にか彼女の手にも握られているのが微かに見える。

「・・・あなたと会えて、良かったわ」

やがて、目を開けていられないほど光が強くなった。
直後、少女の姿は細かい光の粒に変わり、ふわりと天へと昇って行く。
おもむろに立ち上がった神父は、彼女の行き先である夕空を見上げ、長いことそこに佇んでいた。




────泣かないで、と髪を優しく撫でた手があったのは、どれほど前のことだろう。

幽霊になったあげく、愛する男を庇って消えた哀れな 『ジゼル』。
彼女が可哀そうで仕方なかった。
そして、泣いた自分を慰めた柔らかな手。

母があのバレエの演目を選んだのは、物心ついた時からこの世ならざる物が見えた自分への肯定だったのかもしれないが、今となっては分からない。
その母は、流行病であっけなくこの世を去った。
死後、しばらく家の中に現れた母の霊も、次第に朧になり見えなくなった。

けれども部屋の隅を指して 「お母さんがいる」 と訴える息子を父親は避けるようになった。
その溝は広がるばかりで、父と後妻との間に腹違いの弟が生まれると、相続の権利を彼に譲って家出同然に神学校に入学した。
息が詰まる実家での生活に比べ、神学校での日々は気が楽だった。
幽霊が見えることは隠していたので、気味悪がられたりもしない。

そうやって、逃げるように選んだ道だった。
配属先で押し付けられた幽霊退治の仕事も、適当に誤魔化して終わらせるつもりだったのに。

「あなたの名前のせいですよ、ジゼル」

切なげなその声音は、誰もいない空を彷徨って消えた。




しばらくして、街外れの屋敷は取り壊され更地となった。
見習い神父は、その温室から薔薇の株をいくつか持ち帰り、教会の庭に植えた。
時は流れ、花で溢れた教会はいつしか人々に 「薔薇の教会」 と呼ばれるようになった。




* * *




薔薇が咲き乱れる美しい庭に面した窓を開け、老神父は揺り椅子に腰掛ける。
穏やかな春の午後だった。
冷たさと温かさが入り混じる風が、彼の頬を撫でる。
彼の手元の箱には、大事に取ってあるリボンが収められていた。
時が移ろい少し黄ばんだそれを、神父は愛おしそうに眺めて再び箱を閉じる。

ふと、庭に見た事もない青い蝶が舞っている。
やがて、窓辺にとまった蝶は、瞬く間に懐かしい少女の姿に変じた。
驚きで目を見張る神父に、彼女は青いドレスの裾をひるがえし、柔らかく微笑んだ。
その黒髪に、見覚えのある白いリボンが結ばれている。

「上から、あなたが花を大事に育ててくれるのを、見てたわ」

神父は、彼女との再会の意味を理解して微笑んだ。

「お迎えですか」
「そう。 粋な計らいでしょ」

彼女は周囲の薔薇に負けない華やかな笑みを浮かべ、手を伸ばす。

「さあ、行きましょう」
「・・・ええ」

神父は立ち上がり、その手を取る。
────その日、教会の下働きの少年が、中庭で倒れている神父を発見した。
薔薇に囲まれるようにして冷たくなっていた彼のその顔は、なぜか満足そうに微笑んでいたという。

<END>

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