Crimson Eye 10

 濃い藍色の闇に聳える王軍府。それは騒然とした空気に包まれていた。
 松明をかかげた兵士たちが慌ただしく行きかい、殺気立った罵声が飛ぶ。
 彼らを頭上から照らす月光が、不意に翳った。夜空に天蓋のような翼が覆いかぶさる。
 威圧感に満ちた巨体が人々を見下ろすように旋回した。
 竜の羽ばたきを耳にした兵士たちは、水が引くように広場に場所をあけた。
 厚い人垣でできた輪の中へ、竜は舞い降りる。巻き起こる旋風に炎が煽られ、枯葉や粉塵が舞う。
 ナルージャは、騎竜の背から軽やかに降り立った。
 彼女を取り囲む兵士たちの手には弓が番えられ、それらは全てナルージャに向けられていた。少女を見つめるどの顔にも、慄きと疑念が渦巻いている。
 好意とは程遠い視線は、無数の針のように皮膚を突き刺した。
 周囲の殺気を感じとっているのだろう、竜の翼がせわしなく開いたり閉じたりを繰り返す。
(……だいじょうぶだから)
 ともすれば攻撃態勢に入りそうな竜の首を、少女は軽く撫でた。
 厳しい戦場を何度も潜り抜けたナルージャであっても、さすがにこの状況は平静でいられない。けれど表向きは落ち着きを払って顔を上げた。
「大将軍閣下とシアス様にお目通りしたい」
 声高に叫んだその時。騒ぎを聞きつけたのか、王軍府の入口から圧倒的な体躯の男と痩身の男が姿を見せた。大将軍とシアスだ。
 ナルージャに矢を向ける下級兵士たちと違い、彼らはさすがに落ち着きを払っている。それは表面上だけかもしれないが、狼狽を見せる様子は微塵もない。
 ナルージャはその場に跪いて頭を垂れた。
 軍を総べる二人の男が、推し量るような視線を彼女の頭上に落とした。
「国王陛下がお呼びだ。報告は陛下の御前でいたせ」
 雷鳴のような大将軍の声が響く。それに従う意を示し、ナルージャは立ち上がる。
「……ここで待っていて」
 ヴィーヴィルの胸を軽く叩くと、命令を理解した竜はその場で蹲った。
 本音を言えば、竜の傍を離れるのが怖い。
 今、完全に心を許せるのはこの獣だけだ。国を捨てた竜騎士の姉に、積極的に味方する者などいようはずがない。
 これから国王の沙汰がナルージャに下されるのだろう。
 運がよければ謹慎程度で済むかもしれない。最悪なら、処刑。
 少女は恐怖を堪えてぐっと唇を噛みしめた。≪帝国≫の軍が迫る今、最後の竜騎士を殺しはすまい、と己に言い聞かせる。
 意を決してヴィーヴィルから離れた。
「そいつを拘束しろ」
 シアスが兵士に鋭く命じた。左右から素早く寄ってきた兵士が、ナルージャを棍棒で殴り倒す。小さく呻き声を上げて地に伏した少女の腕を捩り、荒縄で縛りあげる。
「乱暴に扱うな。こんな小娘でも、もはやこの国でただ一人の竜騎士なのだからな。……連れてこい」
 眉を顰めたシアスは、踵を返した大将軍の後に続く。
 兵士に引きずられるように、ナルージャは王宮の内門をくぐった。
 小突かれながら廊下を歩く。やがて、艶々と磨かれた寄木細工の大扉の前で、全員が足を止めた。
 扉の前で控えていた衛兵が、拘束された少女を一瞥した。彼らは無言で大扉を開ける。
 大将軍に続き、シアスが室内に歩み去った。
「さっさと入れ」
 後ろから兵士に突き飛ばされる。よろけるように数歩進み、少女は広間の中で立ち止まった。
 眩暈がしそうなほど、高い天井。そこからぶら下がる豪奢な照明。等間隔に並んだ石柱には、繊細な彫刻が施されている。
 そこは、贅の限りを尽くした王宮にあって、最も華やかとされる王の謁見室であった。
 しかしその美しさに見惚れる者などいない。張りつめた空気が漂い、居並ぶ人々の顔はどれも強張っている。
 壁際には、ナルージャと共にやってきた大将軍とシアス、そして高級文官と思われる男たちが控えていた。
 少女は少しずつ歩を進めた。俯きながら、横目で彼らの顔ぶれを確認する。
 王の腹心であるフィグの姿はない。国境から戻ってくる途中、彼とは王都近くの森で会った。彼はまだそこから戻る途上にあるのだろう。
 少女は目線を僅かに上げた。
 金箔と象牙をあしらった至尊の座。そこに、老獪な雰囲気を漂わせた老人が腰を下ろしている。国王ラグレスであった。
 彼の手前で、ナルージャは恭しく膝を折る。
 深い皺の刻まれた瞼の奥から、鋭い眼光が少女を射抜いた。
「竜騎士の娘よ。おぬしの報告とやらを、そして言い分を聞こうではないか」
「……恐れながら申し上げます」
 低い嗄れ声に命じられ、少女は俯いたまま口を開いた。
「今夜半、我が妹クローシャが、騎竜を伴って脱走しました。追跡したところ、国境近くの平原に展開する≪帝国≫の軍と合流するのを確認しました。そして……妹の≪忠誠の花≫は、魔術師団副団長であるイーリオ様が解除した、と」
 広間に沈黙が降り、やがてざわめきが水紋のように広がっていく。
 竜騎士が≪帝国≫に寝返り、王都を攻めてくる。リンデンヴルムにとっては寝耳に水どころか、想像を絶する悪夢である。
 老王は無意識に玉座の肘掛を握りしめた。皺の刻まれた手から血の気が失せている。
「して、イーリオの方は?」
「拘束しておりましたが、官吏を殺して逃走中でございます」
 一歩進み出た老人が王の前に平伏する。魔術師団の団長であった。
「あやつが、≪帝国≫と通じておったか……奴の手記、残していった物を詳しく調べろ」
「は、ただちに」
 身を縮めていた老人は、兵士を数人伴って慌てて出て行った。
 老王の黄ばんだ歯がギリ、と鳴る。
「……≪帝国≫の若造め、姑息な手段に出おって。許さぬ。許さぬぞ。……だが」
 燃えるような眼差しが、跪く少女を捕える。
「お前の片割れは、そのイーリオにうつつを抜かしたあげく、血迷ったのじゃろう。このような事態を招いた責任が、おぬしにないとは言わせぬ! おぬしは、その事実を知っていてなお、隠そうとしたと聞いておるぞ」
「……申し開きのしようもありません」
 平伏するナルージャが言い終わる前に、荒々しい足音が近づいてくる。
「ええい、忌々しい。下賤の娘ごときが余を煩わすなど!」
 段上から降りてきた王は、ナルージャに歩み寄り、彼女の腹を強く蹴り上げた。
 避けようと思えば避けられるそれを、少女は甘んじて受けた。ナルージャのの細い体が後方へ吹き飛ぶ。
「陛下、その者に近づいてはなりません!」
 近衛兵の慌てた声が耳を素通りしていく。
 二、三度腹を蹴られ、力任せに頭を踏まれた。
 胃液が逆流しそうだ。しかし、歯を食いしばって耐える。身を立て直した少女は再び平伏した。
「おぬしの忠誠はどこにある?」
 肩で息をする王が、少女を見下ろす。
「おぬしに最も近しい者が、この国を裏切ったのじゃ。奴同様、叛意を持っていないとも限らぬ。この場で八つ裂きにしてくれようか? どうなのじゃ、真実を言うがよい!」
「……私の忠誠は、この国と陛下にあります。これから、戦場でそれを証明して御覧に入れます」
「妹を殺すことも厭わぬ、と言うか? それは本心か?」
「……はい」
 値踏みするような視線を受け止めながら、ナルージャはゆっくりと頷く。
「口先だけで誓うのは簡単じゃ。≪忠誠の花≫でもまだ足りぬ。……ならば今、余の足元に口をつけてみせよ」
 怒りのおさまらぬ嗄れ声に命じられるまま、ナルージャはゆっくりと体を折った。
 王の傍で控えていた近衛兵が、すらりと抜き放った剣をナルージャの首筋にあてた。
 金属の感触が、皮膚ごしにひやりとする。不審な動きがあれば、すぐに自分を切って捨てるつもりなのだろう。
 静まり返った広間で、その場にいる全員の視線が王と竜騎士に注がれる。
 全ての感情を消して、少女は老王の足元に屈みこんだ。
 一生、戦場に出ることのない王を象徴するかのような、柔らかい絹の靴。ナルージャは一切の感情を排して、それに口づける。
「……もうよい、下がれ。念のため、その娘は数日間尋問しろ」
 やや気が済んだのか、老人の顔からわずかに怒りが引く。
「≪帝国≫との戦が始まる。全員、それに心して備えるのじゃ」
 ラグレスはそう宣言すると自室へと下がった。それを契機に、文官たちは慌ただしく謁見室を辞す。
 近寄ってきた兵士がナルージャを無理矢理立たせた。
 引きずられるように部屋を出される。
 人々が慌ただしく動き出す。しかし、罪人のように連行される少女を、静かに目で追う者がいた。彼の双眸の奥には、昏い愉悦の光が宿っていた。

 

 ナルージャはその日から数日、厳しい追及を受けた。
 裏切り者であるかを見極めるために行われたそれに、竜の世話をする以外の、ほぼ全ての時間を費やされた。
 水を頭から浴びせられ、首を掴まれて引きずり回される。謂れのない罵声を浴び、顔を張られることもしばしばだった。
 骨折などのひどい怪我はしていないが、体中痣だらけだ。
 尋問で断片的に知ったことだが、イーリオはまだ捕まっていないらしい。
 追跡に駆り出された兵士のうち、数名は死体で見つかったという。魔術師団長より実力が上と噂されていた男だ。追手をかわすことなど容易いだろうとナルージャは思った。
 尋問から解放されている間も、少女には厳重な監視がつけられた。彼らの存在を半ば意識的に無視して、彼女は与えられた時間の中、黙々と二頭の竜を世話した。
 ヴィーヴィルの肩の傷は軽く、すぐに塞がった。そのことにナルージャは心から安堵した。
 けれどクエレブラの方は、相当の深手を負っていた。
 主であったリネイを失い、戦場に長く出ていなかった年長の竜は、若いベルダに太刀打ちできなかったのだろう。
 無残に融解した鱗。焼け爛れた、むきだしの肉。弱々しく呻くクエレブラの全身に、少女は必死で薬を塗りこんだ。
 しかし、王家の薬師団が調合した薬をもってしても、この竜を救えないことは明らかだった。
「……ごめん、クエレブラ。ごめんなさい」
 静かに光を失う獣の瞳を、少女は悄然と見下ろす。
 数時間後、運び出されるクエレブラの巨体を、ナルージャは感情を押し殺して見つめた。



 人生で初めて迎える竜の死。それを悲しむ間もなく、再開された数時間に及ぶ尋問。
 憔悴した彼女にようやく与えられた休憩で、ナルージャは独房の床に力なく座り込んでいた。
 独房に一つきりの窓から、弱々しい冬の光が少女の足元を照らす。
 寒々とした石の床の上に座り、膝に顔を埋める。
 連日の、睡眠すら満足に与えられない尋問は神経を容赦なく削っていくようだった。
 ほんの僅か与えられる休憩などでは、ほとんど何の意味もなしていない。もし鏡を見たなら、ひどく面やつれした自分がいることだろう。
 もうすぐ官吏が戻ってくる。少女が小さく息を吐いた時、廊下の奥から足音が近づいてきた。
「ご苦労。少しこの娘と話がある。お前は外せ」
「はっ」
 聞き覚えのある声に顔を上げる。
 牢の鍵が外された。古びた金属の扉が耳障りな音を伴って、横滑りに開く。
「……シアス様」
 貴族的な風貌の、ひょろりとした男。ナルージャは薄布の奥で顔を歪めた。
 これまでこの男と二人きりになったことはない。できればずっと二人きりになどなりたくなかった。
 彼はいつも、嘲るような、それでいて粘つくような視線で自分と妹を眺めまわしていたから。それは嫌悪というよりも、身の危険すら感じさせる類のものだった。
「今日は、俺が尋問を担当する」
 粘つく視線が全身に絡み付く。それをつとめて無視し、ナルージャは立ちあがって無言で礼を取る。
 どうしようもなく嫌な予感がした。
「……お前の裏切りを疑う者は多い」
「仕方がないことだと思います」
 なるべく平坦に答える。男の喉が、くっと鳴った。
「戦場でのお前の働きに期待しているぞ。……ベルダとクローシャは殺せ」
「心得ております。裏切り者を生かしておくわけにはいきません」
 声から感情を消して、少女は更に付け加える。
「私の忠誠は、常に王国にあります」
「……俺はお前を信じている」
 もったいぶった言い方が勘に障る。爬虫類を思わせる眼差しで少女を不躾に見つめ、男は顎に手をやり、にやりと笑った。
 不快さに耐えるナルージャの傍に、彼はゆっくりと近寄る。
「俺は、お前をことあるごとに庇ってはいるのだ。しかし、疑いを持つ者たちを抑えるのは一苦労だよ。────その対価を払ってもらいたいものだな?」
 体を引こうとしたナルージャの腕を捉え、シアスは口の端を釣り上げた。
 嗜虐的な笑みを浮かべ、男はナルージャを壁に押しつける。
 ナルージャは必死で逃れようともがいた。しかし、単純な腕力では敵わない。
「声を上げるな。俺の庇い立てが無ければお前など、すぐに死罪になるぞ」
 ねとつく声で、彼が何を強要しようとしているのかを悟る。恐慌に陥って暴れる少女を、男は力づくで押さえつけた。
「いいか、この場でお前を殺しても俺が咎められることは万一にもない。犬死にを選ぶくらいなら、逆らうな」
(……どうしたらいいの)
 混乱するナルージャの体から次第に力が抜けていく。抵抗しなくなった少女を見下ろし、シアスは落ち窪んだ目を細め、薄い唇を舐めた。
 力の抜けた体を好き勝手に這いまわる他人の手を、どこか遠くに感じる。
 現実と解離させた頭で、ナルージャはぼんやり思考した。王都に戻った時に「死」は覚悟していた。
 けれど、この男の卑劣な脅しに屈するのだけは、我慢ならない。その手で殺されることすら厭わしかった。それなら────いっそ舌を噛み切って死んでしまおうか。
 そう思った時だった。
 唐突に鉄格子の向こうが騒がしくなった。廊下の奥に控えていた兵士たちの制止を無視して、誰かが独房に飛びこんでくる。
「勝手なことされちゃ困るんですよねぇ。そいつは俺の管轄でもあるので」
 素早く抜き放たれた短剣が、慌てて身を起こしたシアスの胸元に突きつけられた。
「……フィグ」
 呆気に取られたナルージャに、彼は「ぼさっとしてないで、こっちに来い」と冷たい視線を寄越す。
 金縛りが解けた少女は、素早く彼の背後に隠れる。
 今更、体の芯から震えがくる。自分の腕を抱いて、おそるおそるシアスの様子を覗き見た。
 さっきまでの残忍な表情の代わりに、彼の顔は憤怒で歪み、相手を殺しかねないほど剣呑な目つきで青年を睨んでいた。
「……若造が。俺に剣を向けて、ただで済むと思うな」
「今のあなたの行いが王の耳に入れば、ただじゃ済まないのはどちらでしょうね? 女好きと加虐趣味はほどほどにしておいた方がよろしいのでは?」
 フィグは薄い笑みを浮かべた。相手をあえて逆撫でする時の微笑だ。
「貴様……!」
 逆上したシアスが腰の剣に手をかける。重い金属が擦れる音が、狭い独房に響く。
 爆発寸前の相手の怒りを、しかしフィグは完全に無視した。
「……こんなことをしている暇などない。≪帝国≫はすぐそこまで来ている。あなたも敗戦の将になど、なりたくはないでしょう」
 そう告げると、彼はナルージャの腕を取ってさっさと歩き出す。
 背後からシアスの怒鳴り声が追いかけてきたが、フィグはそれに構わず、飄々とした足取りで廊下に出た。ナルージャも青年に引っ張られるように独房を後にした。
 

 
 王軍府の地下にあった独房から、地上階に出る。
 石造りではない、木の廊下に二人の足音が鈍く響いた。
 廊下を照らす明るい光を目にして、ようやくナルージャの体から震えが消えた。
 ナルージャを連れ出した青年は、ひと気のない廊下の突き当たりまで来てようやく足を止め、振り返った。
「……あいつはただの女好きじゃない。自分より身分の高い女や、気位の高い女を屈服させるのが好きなんだ。自覚がなさそうだから言ってやるが、竜騎士のお前なんざいいカモだ。わかったら手を焼かせるな!」
 この瞬間までフィグを救世主のように思っていたナルージャだが、普段のぞんざいな口調に戻った青年に苛立たしげに言われ、さすがに少しカチンときた。礼を言いたかったはずなのに、口が勝手に動く。
「余計な世話を焼かれなくたって、自分で何とかしたわ!」
 少女の虚勢を見抜いたかのように、青年は鼻で笑った。
「死んだ魚みたいに無抵抗だったくせに。大方、自害とか考えてたんだろ?」
「……っ」
 図星を指され、少女はぐっと言葉に詰まる。
「もっと気を付けろ。次は助けない」
 勝手なことばかり言って、と反論しかけたが、彼は言うだけ言うと横の階段をさっさと上って行ってしまう。
 少女は罵声を飲みこんだ。そして別の言葉を絞り出すように口にする。
「……助けてくれてありがと」
 最後の方は尻すぼみだった。しかし、彼の耳に届いたらしい。
 肩越しに振り返った青年は、僅かに驚いた表情を見せた。
「お前に今、死なれたら困るからな」
 彼はすぐに無表情に戻った。素っ気なく言うと、今度は振り向かずに踊り場の向こうに消える。

 その背中を見送った後、ナルージャはその場に暫し佇んだ。
 脳裏にあの夜の出来事が蘇る。森で途方に暮れていた自分。そして、自分を探しに来た青年の言葉を。



 妹が去ったあの夜。
 国境から戻ったナルージャは、王都に直行できずに、その近郊に広がる森にひとまず降りたのだ。

 長い距離を飛んだ竜は、相当疲れていたらしい。たまたま見つけた小さな泉が干上がりそうな勢いで、喉を鳴らし、水をぐいぐい飲んでいる。
 その腹を撫でる少女は、苦悩していた。これから自分はどうするべきか、と。
 クローシャの逃亡は、もはや隠しようがない。
 それどころか、自分も疑いを持たれるであろうことは間違いない。ナルージャは、誰より自分に近しい存在なのだ。
 死罪か、拷問か。謹慎で済めばましかもしれない。
 あるいはこのまま、竜騎士としての身分が保持されたなら────戦場に出れば、妹と殺しあうことになることは確実だった。
 彼女とは何度もすれ違いを重ねてきたし、向けられた殺意を思い出すと、腹の底が熱くなるほどの怒りを覚える。
 けれど、自分が生き残るために彼女と殺しあうなど、できようはずがなかった。
(どうせなら、私もどこか遠くへ逃げようか)
 ふとそんな考えがよぎる。けれど、逃げたところで追手か、あるいは≪忠誠の花≫によって殺されるはずだった。
 ナルージャも、できれば死にたくなどない。
 そうやって、妹や自分の未来に悩む一方で、別の理由が逃亡を留めさせていた。
 身を削って守ってきた土地が、焦土となる光景を見たくない。
 村や町が焼かれることを想像するとやりきれなかった。彼女が逃げ出せば、想像は現実のものになってしまうだろう。竜騎士のいないリンデンヴルムは≪帝国≫に敵わない。
 思いは堂々巡りに陥って、容易に答えは見いだせない。
 ……それにしても、と少女は深く息を吐いた。
 自身でも全く気付かなかった自国への愛着。妹にはこんな感情があるのだろうか。いや、ないからこそ裏切ったのか。
 再び会うことが叶うのなら尋ねてみたい、と苦笑を浮かべた時、近くの茂みでガサリと音がした。
 腰の剣を抜いて身構えたが、闇の中から姿を現した相手が誰かを知って、少女は剣先を下ろす。
「……フィグ、何でここにいるの」
「この辺で張ってたら案の定。お前は本当に単純だな」
「ほんとに神出鬼没だね」
 歩み寄る青年に、呆れた視線を寄越す。
 竜が警戒して喉を低く鳴らした。
 獰猛な竜に攻撃されない距離で、青年は足を止めた。
「追跡したんだろう。クローシャの逃亡先は?」
「≪帝国≫よ」
 国境に迫った≪帝国≫軍。攻撃されることなく、彼らの目の前に降り立った妹。
 ナルージャの話に、青年は最後まで黙って耳を傾けた。
「どうして驚かないの?」
 話し終えて、ナルージャは訝しげに問うた。
 彼は時折眉を顰めてはいたが、極端に驚いた様子はない。これはリンデンヴルムの存亡に関わりかねない出来事で、ナルージャ自身、信じがたい心地でいるのに。
 怪訝な表情を浮かべる少女に、青年は「極秘だが」と切り出す。
「イーリオは間者の疑いがあった。大方、奴がそそのかしたんだろ。首輪を外してやるから、こっちに来いって感じでな。あの男なら、クローシャの背負う魔術を解くことも可能なはずだ」
「……≪忠誠の花≫」
 ナルージャが呟く。裏切れば死を賜る、花の刺青。代々の竜騎士を王国に繋ぎとめてきたそれは、少女の背中にも彫りこまれている。
「お前の背中のやつは解いてもらえなかったのか。自由の身になれず、残念だったな」
 不敬に値しかねない言葉を淡々と口にして、青年はまっすぐナルージャを見据えた。
「それなのに、逃げるつもりなのか?」
「……知らない」
 少女の素っ気ない声に、青年は意地悪く笑った。
「逃亡するんなら、ここでお前を殺す。もし俺が仕損じたとしても、他の誰かがやるだろう。あるいは≪忠誠の花≫か」
 何度も手合わせしたことのある少女は、フィグの強さを嫌と言うほど知っていた。騎竜に飛び乗れば生き延びることができるかもしれないが、飛び立つ前に深手の一つは負わされるだろう。
 顔色をなくした少女を楽しげに見下ろして、青年は言葉を続ける。
「けど、それって犬死にだと思わないか?」
 飄々とした口調に、かすかな真剣味が帯びた。
「逆に考えろ。今、王国に竜騎士はお前だけだ。陛下であっても、竜に乗れないような怪我はさせないだろう。
お前は間違いなく戦場に駆り出されるよ」
 何を言い出すのか、と少女は眉を寄せる。
「そこで妹を説得してみればいい。空の上なら二人きりだしな?」
 彼の言葉に虚を突かれた。動揺を悟られぬように反論する。
「……それなら、私が寝返る可能性もあるよ。クローシャにそそのかされるかもよ?」
「単純一直線なあいつがそんな策、弄せるはずがない」
 お前が一番わかってるだろ、と言いたげに青年は目を眇めた。
 ナルージャは口を開きかけて、何も言わずに閉じる。
 ……もう一度妹と会いたい。それは心の底で何より渇望していたことだった。
 フィグの提案は決して、現実的ではない。あの頑固な妹が意思を翻すなど、本当に万が一だ。頭ではわかっている。
 それでも、再会することで絶望が深まったとしても会いたかった。
 どこかで彼女を信じていたかった。
 ナルージャの深い心の奥に、青年の言葉は甘く毒のように染みこんでいく。
 思いに沈む少女を横目に見ながら、フィグは懐から引き抜いた短剣を弄んだ。研ぎ澄まされた刃が、月光を反射して銀色に煌めく。
 彼女が顔を上げるまで、彼は辛抱強く待った。
「……王都へ戻るわ」
 決然と少女は告げた。ひと目でも妹に会える可能性があるのなら、多少辛い目にあっても構わない。
 むざむざ殺しあうつもりはない。もし彼女に殺されたとしても、≪帝国≫での妹の立場が確立されるのならば、無駄死にではないような気がした。
「説得に応じなければ全力で倒せ。言っておくが、妹にわざと殺されるようなことだけはするなよ」
「……わかってるわ」
 内心を見透かされたようで、どきりとする。
「そうか。ならいい」
 少女の内心を見透かすようにフィグは目を細め、現れた時と同様すっと闇に溶けていった。
 夜の森に、沈黙が戻る。
 ナルージャは、蹲る飛竜の背に飛び乗り、夜の天蓋が覆われた空へと舞いあがった。



 ────ナルージャは明るい廊下で自分の掌に目を落とした。
 竜の手綱を握ってきた手は、傷だらけで固い。おぼろげに記憶している、農夫であった父の手よりも荒々しい。
 少女は両手を握りしめて下ろすと、厩舎に向けて踵を返した。

 彼女に出撃命令が下ったのは、その翌日のことであった。


copyright (C) 2008 * 水 中 花 * All Rights reserved.