カレー王子の初恋 前編

 奥深いスパイス使いによって恍惚へと誘うインドカレー。それはまるで、悠久たる歴史を体現するかのよう。
 あるいは、唐辛子の辛さとココナツミルクの甘さが、互いを否応なく引き立てるタイカレー。
 魚の頭をまるまる煮込んだフィッシュヘッドカレーに、タイカレーと似て非なるマレーシアのまろやかなカレー。
 サツマイモとニンジンで優しい味を引き出した、ベトナムのカレー。
 日本のカレーと瓜二つ、しかしほのかに八角香る台湾のカレー。
 世界中の味を一巡して回帰するものは、やはりスタンダードな給食のカレーかもしれない。

 カレーとは、人生なり。


* * *


 森川太一は、昼食をともにする友人に、半ば呆れて声をかけた。
「……お前、毎日カレーばっか食ってて、よく飽きねーな」
「昨日はカレーうどん、その前はカツカレー。毎日同じというわけではない」
 抑揚に乏しい声が返ってくる。声の主、進藤明生は、プラスチックの皿に盛られた学食のカレーを、優雅に口に運んでいる。
 そんな明生に、太一は少しとげのある言葉をかけた。
「お前さー、カレー以外に興味持てることってないわけ?」
「ない」
 即答。そして彼は、「これ以上邪魔するな」と言わんばかりにカレーを味わっている。
「……あっそ」
 清々しいくらい、迷いがない。それが、太一には少し羨ましい。
 黙々と匙を口に運ぶ明生の顔は、嫌味なほど整っている。切れ長の目、すっと通った鼻筋。ほっそりした顎のラインはまるで、少女マンガから抜け出てきたかのようだ。
 何をしていても様になる男。それが明生だ。彼なら、ケツをかく仕草さえ、年頃の乙女を魅了してしまうだろう。
 こうして学食で飯を食ってる今も、女子学生たちの熱い視線を感じる。
 一方、太一は三日前、気になる女の子をデートに誘い、呆気なく玉砕した。
 だから、女子の熱い視線を一身に浴びる友人を多少妬んでも、今日くらいは許してくれと思う。
 どうせ、太一の皮肉なんぞに、目の前の男は動じない。
 明生の興味は唯一、「カレー」に集約されているのだから。

 ────二人は、大学最初の講義で、隣同士の席だった。
 その日選択した科目は全て同じ。そこから始まった友情は、三回生の今も続いている。
 そして、出会って以来、明生はいつもカレー、またはカレー味のものを食べている。
 毎日カレー。来る日も来る日もカレー。むしろカレー以外口にしているのを見たことがない。
 外食の時だけでなく、自炊も基本的にカレーらしい。
 一人暮らしの友人宅に招かれた際、キッチンの棚にずらっと並ぶスパイスは、太一の目を丸くさせた。
 その日、明生が彼にふるまったお手製のカレーは、恐ろしく本格的なものだった。聞けば、五日煮込んだという。
 深みのあるルーは、店で食べるものを遥かに凌駕する美味しさで、太一を唸らせた。

 そんな明生の夢は、カレー店経営であるらしい。
 そのために大学は経済を専攻し、卒業後はココ○チに就職して経営ノウハウを学ぶつもりだという。



「俺がお前なら今頃、薔薇色のキャンパスライフを謳歌してるっつーのに。彼女ほしいぞこんちくしょう」
「……太一は恋愛至上主義だな」
 最後の一口を食べ終わって、スプーンを置いた明生が顔を上げた。
「普通の大学生はさー、みんなこんなもんなの。おかしいのはお前だ」
「恋愛なんて相手に振り回されるだけだろう。好きな相手に振り向いてもらえるかも分からない。俺には、時間の浪費としか思えない。
 自分の好きなことをひたすら極めた方が、よほど有意義な人生だと思う」
「つまりカレーが恋人か。ほんと、お前のカレー愛って変態的だよなぁ」
 明生は眉を上げたが、無言のままトレーの上の皿を直した。太一のコメントに無視を決めこむらしい。
「っと、そろそろ次の講義始まるな。行くか!」
 二人は空の皿の乗ったトレーを片手に、席を立つ。
 彼らの(主に明生の)背中を、女子学生たちの熱い視線が追いかけてゆく。

 進藤明生。
 またの名を「カレー王子」。
 女子学生の間で、密かにそう呼ばれていることを、本人はまだ知らない。



* * *



 今日、明生は珍しく一人で学食に来ていた。
 いつも隣にいる太一は、風邪で休みだ。
(馬鹿も風邪を引くんだな)
 真顔で失礼なことを考えながら、まばらに埋まっているテーブルをすり抜け、席を探す。
 彼は、混雑した場所が好きではない。あまり人の来ない学食の隅の席に腰を下ろす。
 トレイを置いて、ふと目を上げる。
 瞬間、明生の脳天に、雷に打たれたかのような衝撃が走った。普段見開かれることのない切れ長の目が限界まで開いて、ある一点に釘付けになり、体は麻痺したように動かない。明生は、自分の頬が紅潮していくのを感じていた。
 一つ向こうのテーブルに、「彼女」はいた。自分と向かい合わせに座った、おかっぱ頭の見知らぬ女子学生。
 ……彼女は、まだ幼さの残る顔に満面の笑みを浮かべ、それはそれはおいしそうに、カレーを一口。
 幸せそうにその一口を味わい、細い喉を嚥下させて飲み下すと、また一口。
 いまだかつて、あれほどおいしそうにカレーを食べている女子を、見たことがない。
 明生の喉がゴクリと鳴った。
 心臓が自分のものじゃないみたいに跳ね回っている。
(これは一体、なんだ─────!?)
 おっとりしていそうな彼女は、明生のガン見に気づかない。そろそろ視線を逸らさなくては、と理性は訴える。しかし、おいしそうにスプーンを口に運ぶおかっぱ女子から、瞬間接着剤で張り付けられたかのように、彼は目が離せなかった。
 こんなことは、人生で初めてだ。不可解な動悸の理由を自覚するヒマもなく、明生は彼女を見つめ続けていた。
 その目がふと、トレーの上に乗ったあるものを捉える。瞬間、火照っていた彼の頬は、一転して青ざめた。

 彼女のトレーの上には、カレーの皿だけではなく─────漆を模したプラスチックの茶碗が置かれていた。それは。

(味噌汁……だと……?)

 カレーを宗教のごとく崇める彼には、一つだけ許せない食べ方があった。
 それは、「カレーと味噌汁」という組み合わせだったのだ。



* * *



「……で、君は初恋と失恋を同時にしたわけね」
「……」
「よーやく俺の気持ちが分かったか」
「年中色ボケしているお前と一緒にするな。これは崇高かつ神聖な……」
「混乱してるねー」
 ずびっと鼻をすすった太一は、机に突っ伏したまま意味不明の反論をする親友を、呆れて見下ろす。
 風邪がほぼ良くなって、講義に復帰した今日。二日ぶりに会った友人の様子は明らかにおかしかった。げっそりしていて、いつにも増して口数が少なく、上の空。目の下にはうっすら隈が。
 老人のように規則正しい生活を送る、病気とは無縁なこの友人の、ただならぬ雰囲気にさすがに心配になった。
 理由を問い詰めると、きっぱりすっぱりした物言いの明生にしては珍しく、最初は言葉を濁していた。が、執拗な問いかけに諦めたのか、明生は重い口を開いたのだった。

「カレーと味噌汁がそんなにショックだったわけ?」
「……そういうことだ」
「いーじゃん別に、そのくらい。グラタンをおかずに、米を食うよーなもんだろう」
「全然、違う!」
 明生はがばっと顔を上げ、いかに味噌汁とカレーが合わないかを立石に水が流れるように力説し始めた。
 あのネギが〜とか、味噌の香りがだな! とか何とか。
「……あー、もうそれは分かったから。お昼だし、とりあえず学食行こうぜ! 俺もその子見てみたいし」
 ほっといたら延々と語っていそうな明生を遮り、太一はさくっと立ち上がる。
「え……いや、それは……その子がいるかもわからないし」
 怜悧な顔が、乙女のように染まって戸惑う。
「お前キモい。モジモジしてないでいくぞオラ」
 蛹が成虫になるように、一晩で変容を遂げた友人を、太一は強引に促した。(恋って怖い)と思いながら。

 二百人は収容できそうな広々した学食を、太一はぐるりと見回した。
「さて、その子はどこだー?」
「……いた」
 同様に周囲に目線を配っていた隣の明生が、体を強張らせる。
「……見つけんの早いな。どこ?」
「ポスターがかかっている壁の下の、窓側の席だ」
 恋する男のセンサーというものは、恐ろしく鋭敏にできているらしい。
 彼が示したその席は、ここからざっと二十メートルはある。しかも、食堂はそこそこ混んでいる。見慣れた相手ならともかく、一度見かけただけの彼女を、こうも即座に見つけるなんて。
 ……こいつ、もしかしてストーカーの気があるかも。
 太一は初めて、カレー偏向者の友人に、軽い恐怖を抱いた。
「とりあえず、近くに行ってみようぜ!」
 気を取り直し、渋る友人をぐいぐいと引っ張っていった。



「かわいいじゃん」
 一つ離れたテーブルに、目当ての女子学生と向かい合わせになるように座った二人は、彼女をチラチラ見ながら小声で会話を交わす。
 彼女は食事に夢中で、こちらに気づく様子はない。
「……当たり前だ」
 何が当たり前なのかは明生自身にもわからない。しかし、改めて見る彼女は、とてもかわらしかった。
 顎の辺りで切りそろえられたサラサラの髪も、素朴な雰囲気の彼女によく似合っていた。
 ちまちまとスプーンを口に運ぶ様子は、小鳥か小動物を思わせる。
 まだ幼さの残る顔立ちだから、一年生かもしれない。
 しかし────彼女の食べているカレーの隣には、やはり味噌汁。
 ここの学食は、定食の他に小鉢や味噌汁も単品で購入することができる。だから、彼女はあえてカレーのお供として味噌汁を選択していることになるのだ。
「声かけてみれば?」
「勘弁してくれ」
「どーして。びびっちゃってんの?」
「そんなんじゃ……ない」
 ニヤニヤ笑う友人の挑発に大きな声を出しかけ、途中で声を潜める。
「味噌汁だ。俺は、あれだけは本当に許せないんだ」
「アホか! お前な、『美味○んぼ』の山岡さんと栗田さんを見習え」
 二人は家庭環境や嗜好の違いを乗り越えて、真の意味で、初夜の翌朝に結ばれたんだぞ! と、太一は力説し始める。
 あれは、料理マンガじゃなかったか……?
 明生の素朴な疑問は、次に友人が口にした言葉を聞いて、吹っ飛んだ。
「まずは当たって砕けろ。てゆーか、俺はお前の砕けるところが見たい。ちょっと話しかけてみろ」
「嫌だ! そんなもの無理に決まっているだろう!」
「無理じゃない、男だろ!」
 太一に腕を引っ張られた明生は、力の限り抵抗した。しかし、友人は細身に似合わぬパワーで、明生を引きずり少女の方へと歩み寄る。
「どーもー! ここ、いいかな?」
 不意にかけられた声に、味噌汁のお椀に口をつけていた彼女の肩が跳ねた。
「……かっ、カレー王子! と、そのお友達さん……!」
 丸い目を見開いて、二人を見上げた彼女の口から、謎の単語が紡がれる。怪訝そうな顔をした明生に、彼女は、しまった、という表情を浮かべた。
「カレー王子……?」
「……お前、影でそう呼ばれてるんだよ。この有名人め」
 友人の小さな耳打ちに眉をしかめた。が、「その顔やめろ。彼女怖がるぞ」と窘められる。慌てて眉間に入った力を抜いた。
「向かい、座っていい?」
「……どうぞ」
 人懐こく尋ねた太一に、真っ赤になって俯き加減に答える彼女。
 その様子を見ていると、明生の心臓は、全力疾走並みの心拍数に到達しそうだった。が、狼狽えた無様な態度は、意地でも見せられない、と思う。渾身のポーカーフェイスで感情を抑え込み、友人の隣に腰かける。
「何年生? 名前、なんてーの?」
「一年生、です。葉月かおり、と言います……」
 馴れ馴れしく話しかける太一に、しどろもどろに彼女は応じる。
「俺、森川太一ってゆーの。三年。よろしくー」
 会話しながら、お前も何か話しかけろ、と彼はさりげなく肘でつついてくる。
「……カレー」
「は、はい?」
 彼女の視線が、こちらに向けられた気配がした。しかし、まともに目を合わせることができない。
「カレー、好き?」
「あ、はい。好き、です……」
(好き────)
 その瞬間、明生は天にも昇る心地がした。
 まるで、自分のことを好きだと言われているような錯覚。
「……言っとくが、カレーのことだぞ」
「わかってる」
 耳まで真っ赤になって俯く彼女を前に、男二人は小声で囁きあう。
 明生は、太一が話しかける度に頬を染める彼女の様子を、「きっと、純情で、男性と話すことに慣れていないのだ」と解釈した。
 その解釈は、けして間違っていない。けれど、それだけではないことを、彼は今後知ることになるのだった。

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