カレー王子の初恋 後編

 それからというもの、二人はかおりの姿を学食で見かけるたびに、声をかけるようになった。
 今まで全く女っ気のなかったカレー王子である。彼に憧れを抱く一部の女子は落胆し、あるいはギリィ……と歯を噛みしめ、三人仲良く昼食を楽しんでいる姿を遠巻きに眺めていた。が、日が経つにつれ、冷静になると、嫉妬するのは間違いだという認識が広がった。
 なぜなら、ぽっと湧いたおかっぱ女子に積極的に話しかけているのは、カレー王子ではなく、彼の友人Aであったから。
 かくして、「あの子は友人Aの彼女か、あるいは知り合いなのだ」、と周囲は思いこんだ。そして、学食は平和な空気を取り戻していった。



「かおりちゃん、専攻なに?」
「えと、中国文学、です」
「へー。じゃあ中国語が読めるんだ」
「ちょっとだけ、ですが……」
 頬を桜色に染めたかおりは、照れたように微笑んだ。
 楽しく会話する二人の横には、仏頂面のカレー王子が佇んでいる。
 彼女の情報を引き出す話術など、明生にはない。
 そんな自分を気遣って、積極的にかおりに話しかける太一に対し、それをありがたく思う半面、どーにも面白くない。
 なんだこのいい雰囲気は。俺がまるで……邪魔者みたいな。……心の中はそんな不満でいっぱいだった。
 そして相変わらずかおりのトレーには、カレーの隣に味噌汁が乗っている。彼の心は、いろんな意味でチクチク疼いた。

 とはいえ、昼休みのひと時をともに過ごすようになって、明生はますますかおりに惹かれている自分に気がつく。
 一方で、自分が築き守ってきた信条を覆す味噌汁の存在が、大きな壁となって彼を苦悩させる。
 太一に言わせれば、「ちっせー悩みだな」と言うが、彼にとっては切実な問題だ。

 明生がまだ子供だった頃。
 共働きの両親に代わり、進藤家の台所をしきっていたのは祖母だった。
 カレーに味噌汁という組み合わせを、明生が受け入れられないのは、この祖母に原因があった。彼女に、残り物で作られた味噌汁ぶっかけカレーを完食することを強要されたからだ。
 食べ物を大事にする心根は素晴らしいと思う。
 しかし、洋食に疎い祖母の、残り物リメイク術は、彼の心に消えない傷を残したのだった。
 表情を消した水面下で、幼少期のトラウマと葛藤する明生をよそに、太一とかおりの楽しそうな会話は続いている。
「そういえば、お二人の専攻は……?」
「あ、俺たちは経済。主に経営学かな。そーだ、聞いてよかおりちゃん」
「はい、何でしょう?」
「こいつの夢、カレー屋になることなんだってさ。店ができたらさ、食べに行ってやってよー。……なあ、お前も自分の店にこんなかわいい子が来てくれたら嬉しいだろ?」
 いきなり話を振られ、我に返った明生は、「……だいぶ先の話だが、そうだな」と頷く。しかし、彼女を直視できないために、そっぽを向いたままの返事は、いかにも不機嫌そうに見える。
 すかさず入った太一からの肘鉄を、彼は掌でさりげなく受け止めた。
 友人は笑顔のまま、こめかみに青筋を浮かべる。その表情からは、「お前、こんだけ俺がお膳立てしてやってんのに」という怒りが窺えた。
 そうは言っても、今まで、カレーにしか興味のなかった明生だ。好意を抱く女子の前でうまく立ち回れるはずがない。彼女の前だと、血圧が上がりすぎて、そのまま昇天しかねないくらいの心地なのだ。
「……あ、俺ちょっと事務に行かなきゃいけないんだったわ。明生、後でなー。かおりちゃん、またね!」
 業を煮やしたのか、すっと立ち上がった太一は、カバンを肩にひっかけて、軽やかに爽やかに立ち去ってしまった。
「……」
「……」
 残された二人の間に漂う、気まずい沈黙。
「……あの……」
 数十秒後。
 意を決したように、かおりが口を開いた。が、すぐに顔を真っ赤にして俯く。
「やっぱり、なんでもないです」
 そんな彼女に心拍数を上げながらも、明生は無表情を取り繕って声をかける。
「言いかけて途中でやめられると、気になるんだが」
 つい、きつい言い方になってしまった。内心、激しく後悔する。本当は、「俺でよければ何でも答えるから聞いてくれ」くらいは言いたいのに、柔らかい物言いに慣れない口は、いつも通りにしか動かない。
 彼女は案の定、小柄な体をますます小さくした。ただでさえ虫の居所の悪そうな明生の機嫌を、これ以上損ねたくない、と思ったのだろう。蚊の鳴くような声で呟く。
「……森川さんって、好きな人、いるんでしょうか……」
 控えめなかおりの声はしかし、戦闘機の爆撃のような衝撃を明生にもたらした。
 耳を真っ赤にしてそう尋ねた相手が、誰を想っているのか。理解できないほど、鈍感ではない。
 もう時が永遠に止まってしまえばいい。いや、いっそのこと時間を巻き戻したい。不用意に彼女の言葉を促した瞬間まで、あるいは────彼女と出会う前まで。
 こんなに苦しい思いをするより、その方が余程ましだ。
 ────約五秒間、高速で現実逃避をした明生は、不安そうに自分を窺うかおりの、つぶらな瞳に気づく。
「太一なら、今、好きな女性も彼女もいないはずだ」
 かろうじて絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「……そう、ですか……」
 かおりのかわいらしい顔に、花のような笑みが浮かぶ。
 カレー王子こと明生の恋は、かくして二度目の大破を迎えた。



* * *



「どーしたんだよ、お前」
 友人の腕を掴まえ、太一は相手を問い詰める。
 いつもよりスパイシーな香りを漂わせた明生は、怒ったような顔で目を逸らした。
 彼から漂う香りは、けっして香水などではない。本人自作のカレーに焚きしめられただけのこと。しかし、容姿端麗な明生から漂うと、香辛料の香りすら高級なフレグランスのように思える。
 イケメンである彼は、ユニ○ロをあたかも高級ブランドのように着こなす。香りにおいても、その法則は成立するらしい。イケメンずるい。いや、そんなことは今はどうでも良かった。
 振りまかれる香りの強さから、昨日彼が仕込んだカレーは、相当な量だ。明生は、心に思うことがあると、迷いを払拭するために大量にカレーを作る癖がある。
 昨日の夕方、明生から突然、『しばらく一人になりたい』とメールが送られてきた。
 共通の講義では、特に何も言わずとも隣に座るのに、さっきの講義では、明生は太一から最も遠い席に着いた。
 講義が終わった後、自分を避けるようにそそくさと教室から出た友人を、太一は全力で追いかけ捕まえたのだった。
「……ほっといてくれ」
 逸らされた目の下には、かおりと出会った翌日に見たものよりも、更に濃い隈が浮かんでいる。
「ほっとけるかよ、一応、友達だしな」と言うと、表情の乏しい彼にしては珍しく、苦しげに顔を歪めた。
「とりあえず、理由を話してみろよ」
 太一がそう言うと、彼は観念したように溜息をついた。



 古びたソファが並べられた、あまり人の来ない休憩スペース。
 次の講義をさぼって、二人はここで缶のアイスティーを啜っている。明生の分は、太一のおごりだ。
「……お前がもっと嫌な奴だったら良かったのにな」
 しんと静まり返った廊下に、明生の声がポツリと落ちた。
「何だそれ」
 ふん、と鼻を鳴らし、彼は重たげに口を開く。
「……葉月さんに、お前に好きな人がいるか、聞かれた」
「……は?」
 きょとんと目を丸くする太一に、明生は唇を自嘲の形に歪めた。
「良かったな、お前、彼女ほしがってただろう。あの子が好きなのは、太一だ」
 時が止まったような一拍の後、「ええええーーーーー???」という太一の声が廊下に響きわたる。
「まじ?」
「本当だ」
「いやーーーー参っちゃうなー俺モテモテ?」
「……」
 にやけた友人の表情に、明生は殺意を覚える。
「あ、でも」
「何だ」
「俺、ムチムチグラマーな年上が好きなんよ。かわいいっちゃかわいいけど、かおりちゃんみたいなロリっぽい幼児体型は好みじゃねーな」

ガッ!!

 痛そうな衝撃音とともに、太一の小柄な体が斜め後方に吹っ飛ぶ。爆発しそうな感情をギリギリで押さえこんでいた明生は、彼の言葉を聞いた瞬間ぶち切れた。気がついたら、立ち上がって太一を殴り飛ばしていた。
「ろ、ろりとかよーじ、とかっ! 葉月さんになんて失礼な、お前はーーーー!」
 怒りで震える体を抑え、仁王立ちで太一を睨みつける。ソファから転げ落ちた太一は、驚愕に目を見開いていたが、怒りを浮かべて立ち上がった。
「いってーな! 殴ることないだろ!」
「うるさい、もう一発食らえ!」

ドカッ

 次に吹っ飛んだのは明生の方だった。左アッパーをよけた太一に右頬を殴られ、向かいのソファに倒れこむ。口の端を切った明生に、太一は怒鳴る。
「俺にもな、好みっつーのがあんの! 篠崎愛ちゃんをぐっと大人にしたみたいなムチムチボディ女子がいーんだよ! お前にはわかんねーだろうけど!」
「わかるか!」
「ぐほっ」
 立ち上がりの勢いをつけて、ボディブローをかます。
 太一の脇腹に、明生の拳がめりこんだ。しかし、よろめきながらも、太一は倒れない。
「……てんめー」
 痛む脇腹を庇いながら、彼は明生の脛にローキックを繰り出す。
 人気のない廊下での殴りあい、蹴りあいの応酬はその後、十分間続いた。



「……はぁはぁ」
「……お前、カレーしか作ってないわりにはしぶといな」
「……カレー作りは体力を要するんだ」
「おめーなんざ一生カレー食ってろ」
「言われるまでもない」
「……じゃなくて、何の話からこうなったんだっけ」
「葉月さんだ」
「あー……」
「……」
 ボロボロになって睨み合っていた二人だが、さすがに体力の限界を感じていた。
 どちらともなく、ソファの両側の端にドカッと座り足を投げ出す。
 しばしの沈黙の後、前を向いたままの太一は、やや投げやりに口を開いた。
「思うにさー、かおりちゃんって恋愛に免疫なさそうだし、たまたま話しかけてきた俺が気になる、とかそんな程度じゃねーの」
「……」
「積極的に真摯にアプローチすれば、絶対お前の方に来るって」
「……どうしてそんなことを言う? あれだけ彼女が欲しいって騒いでたじゃないか」
 明生はそっぽを向いたままぼそりと問う。「んーそりゃあねえ」と横で苦笑する気配がした。
「俺だって、お前の初恋を応援したいわけよ。いつもレポートとか見せてくれる大事な友人だしさ。あんだすたーん?」
 ふざけた態度を装った友人の本音に、明生は不意に涙が出そうになった。彼の真意に気づかなかった罪悪感と、何とも言えない感情が同時に突き上げてくる。
「……殴ってすまなかった」
「俺もロリとか幼児とか言って悪かったよ」
 消え入りそうな声で謝る明生に、小柄な友人は笑った。



 そして翌日の昼下がり。
 二人の顔にできたでっかい青痣を、かおりはひどく心配した。
 階段で二人して転んだ、と誤魔化す。
「んじゃ、俺ちょっと用事あるから」
 先に席を立った太一に軽く手を振って、明生は隣のかおりを見下ろした。小柄な彼女のつむじが見える。そこにときめきを感じつつ、彼は思い切るように口を開いた。
「……あの」
「は、はいっ」
「行きたいと思っていたカレー屋があって」
「はぁ」
「そこの割引券をもらったから……その……一緒に行ってもらえないだろうか」
「え……」
「いや、無理にとは言わないっ! 太一を誘うつもりだったんだが、あいつは用事があるとかでっ」
「あの」
「毎日、カレー食べてるから、どうかなと思って! 別に変な下心があるとかでなく!」
 困った表情を浮かべたかおりに、明生は矢継ぎ早にたたみかける。
「……あーぁ」
 その場を去ったと見せかけた太一は、柱の陰から二人を覗き見てやきもきした。
 そうやって冷静さを欠いた言葉を付け足せば付け足すほど、相手の不審を煽るんではないだろうか。というかそもそも、明生は下心で一杯である。
 それに、女の子を初めて誘う場所として、カレー屋ってどうよ。
 ……突っ込みどころは多々あるが、友人が好きな子に対して積極的になったことは喜ばしい。太一は面白半分、応援半分で成り行きを見守る。
「……急に誘って、迷惑だっただろう。すまない」
 すっかり空回りして意気消沈した明生が、肩を落とす。
「進藤さん、あの」
 しょんぼりした子犬のような目で、明生はかおりをちらっと見た。
「そのカレー屋さん、進藤さんのおすすめなんですよね。あの、私……行ってみたいです」
 丸っこい目をパチパチさせて、かおりははにかむように笑った。
「……ありがとう」
 明生は一瞬言葉に詰まった後、つぶやく。無表情に戻ったその顔は、よくよく見れば赤い。
 かおりに気づかれないように、彼は太一にそっとピースサインを送ってくる。
 太一は意地悪い笑顔とともに、大きな一歩を踏み出した友人に向かって、ぐっと親指を立ててやった。



「あの、連れてきてくれて、ありがとうございました。とってもおいしかったです」
 カレー屋の自動ドアを抜けると、かおりはぴょこんと頭を下げた。
 顔を上げた彼女と目が合う。明るい微笑みは、明生の思考回路を劇的に作り変えていく。
 そうすると、今まで見ていた世界が、まるで違って見えてくる気がした。
「……いや、こちらこそありがとう」
 もはや味噌汁のことなどどうでもいい。やはり自分は太一の言う通り、小さい男だったのかもしれない。
「また……誘ってもいいだろうか」
「カレー屋さんですよね、はい、ぜひ」
 その返事に、明生は幸せを噛みしめる。
 しかし、翌日、「自分から誘っといて割り勘とかありえない」と太一にダメ出しされ、地にめりこむまで凹むことになった。



 かくして始まった、スパイシーかつ微妙な三角関係に決着が着くのは、実はそう遠い未来でもない。

 ────ちなみに明生の夢は、いつか、東南アジアからインド、中東まで旅をしながら、各国カレーの食べ歩きすることだった。今は、それに「葉月さんと一緒に、できれば新婚旅行で」という項目が密かに付け加えられている。

<END>

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