虚空の方舟 1

深夜、とある集合住宅の一室に忍びよる複数の影があった。
その一人が、小型の機械でセキュリティを手早く解除し、合図する。
けれども、音もなく扉の内側へと滑り込んだ彼らは目的の人物を見つけらることができなかった。
「逃げられたか」
リーダー格の男が忌々しげに舌打ちし、命令を飛ばす。
「2チームは小娘が近くに隠れていないか探せ。
 残りはここで 『Belenus』 関連と思われるものを回収しろ」
その指示に、数人が素早く部屋を出ていく。
残った者は引き出しや戸棚の中身を床にぶちまけ始めた。
品の良い家具で整えられた室内は、時間を経るごとに無残に荒らされていった────。




少し時間を遡る。
部屋の住人であった少女は、異変を察し間一髪で部屋を抜け出した。
屋根づたいに隣の建物から通りへ脱し、タクシーを拾う。
発進した車の後方に追跡者がいないことを確認すると、少女は安堵の息をついた。




* * *




地表の汚染物質と 『神の雷』。
先の大戦から三十数年がたった今も、その遺物は地上と空に居座り続けている。
そんな地球で、ある天才科学者が率いるチームの開発した浮遊都市は、行き場のない人類がようやく手に入れた平和と安息の地となった。
浮遊都市とは、核融合エンジンの力で空に浮かぶ巨大な町。
建造された都市はのべ百基を超え、人々の多くはその限られた空間で生活している。

中でも最大の人口を収容するのはここ、エイオスだ。
荒野に突如出現するこの都市は、 「ゴリアテ」 と呼ばれる巨大都市を中心に大小の都市を連結させて一つの町を形成している。

その巨大な揺り篭は、静かに夜の闇に漂う。
淡い燐光を放ち、海底で身を寄せ合う深海魚のようにどこか儚げな雰囲気を纏って。




このエイオスの最高学府、キール中央大学の前でタクシーが停まった。
ほとんど流通していない現金を少女は差し出す。
迂闊にカードを使っては、正体不明の相手に行き先を教えるようなものだ。
アジア系の運転手は嫌な顔をしたが、少女が 「釣りはいらない」 と言うと笑顔で金を受け取った。
タクシーを降りた少女が目指す先、システム開発研究棟は、深夜にもかかわらずちらほら明かりが灯っている。

研究棟三階のアルフレド・スタイナー教授の研究室では、助手のエド・ニルセンが学会準備に追われていた。  他の研究者はみな帰ってしまい、今、ここにいるのは彼一人だ。
黒髪をくしゃりとかきあげ、上背だけはある、ひょろっとした体を伸ばして欠伸する。
「スタイナー教授、いらっしゃいますか」
突然の声に振り返ると、栗色のくせ毛を肩まで伸ばした少女が入口に立っていた。
手には小さな鞄を大事そうに抱えている。
可憐な顔立ちの少女だが、それ以上に、真っ直ぐこちらを向く理知的な瞳が印象深い。

「教授なら、もう帰られたよ」
この辺の研究室の学生だろうか。
見覚えのない顔に内心首を傾げながら、答える。
「そう・・・では、教授のご自宅にご連絡できませんか?
 急ぎの用件なんです。 レナ、と言えばわかってくださると思います」
こんな時間に、自宅にいる教授を呼び出すなんて余程の用だろう。
それ以上深く考えず、エドは了承する。
「あ、じゃあ少し待ってて。 今教授の家に繋ぐから」
ネットワークを開き、教授の自宅の回線を呼び出した。

数回コールが鳴った後、口元に髭をたくわえた怪訝な顔がホログラフに映る。
「ニルセン君か。 どうした?」
エドの師であり、システム開発の世界的権威でもあるアルフレド・スタイナー教授だ。
その風貌は、ひたすら研究に打ち込んだ半生を体現するような威厳に満ちている。
学部所属の学生たちはこの老人を畏怖しているが、エドはさほどではない。
研究室にいる数年の間に彼の厳しさには慣れてしまったし、何より研究を続ける上で援助を申し出てくれた恩師だ。
怒れば怖いが、真摯に研究と向き合う者に惜しみなく助力する彼を、エドは尊敬していた。

お休みの所失礼します、とスタイナー教授に前置きしてエドは告げる。
「教授に、レナさんという方が見えてますよ」
「何? レナ?」
滅多な事で驚かないこの老人が、珍しく目を瞠る。

「スタイナー教授、お久しぶりです」
いつの間にか傍に来ていた少女が、画面に話しかけた。
「突然、申し訳ありませんが、できれば今すぐお会いできませんか。
 何があったかは会ってからお話しします」
切羽詰まった調子で少女が告げる。
ただならぬ空気を察して、老人はすぐに首を縦に振った。
「久し振りと言いたいところだが、積もる話は後だな。
 よろしい、今から私の家に来なさい」
「ありがとうございます!」
花が綻ぶような笑顔を少女は浮かべた。
「ニルセン君、彼女を送ってくれないか。 すまんが、よろしく頼む」
「わかりました」
突然の運転手役を仰せつかったエドだが、彼女の笑顔を見てしまった後では決して悪い気はしなかった。




星の光は、都市の内側からほとんど見えない。
天を覆うドームのガラス越しに、月だけが頼りなげに輝いている。
「いいんですか?」
「うん、ちょうど帰ろうとしてたから、気にしないで」

車は音もなく発進し、滑るように道路を走る。
先に沈黙を破ったのは、少女だった。
「あなた、学生さん?」
「いや、助手」
「え、何歳なんですか?」
「29歳」
微妙な顔をした彼女に、肩をすくめて言う。
「童顔だってよく言われる」
・・・先ほどよりも少し気まずい沈黙に、二人は気付かない振りをした。

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