虚空の方舟 2

巨大なセラミックの柱が目の前に聳える。
浮遊都市のドームは、このフレームに三角形の強化ガラスを嵌めこんだ半球に近い多面体だ。
ドームに近接する都市外れのこの一軒家に、スタイナー教授は一人で住んでいた。

ユグノー社製の小型車シリウスから、二人は降車する。
玄関先のインタフォンのボタンを押し、少女を連れて来たことを告げると、扉が開いた。
けれど、隙間から覗いた老人の顔を見るなり、エドは嫌な予感に襲われる。
「では、おやすみなさい」
立ち去ろうとした彼の試みは、あっけなく失敗した。
「ニルセン君、君も来なさい」
有無を言わさぬ声音が、見えない手となって彼の首を捕らえる。
しぶしぶ、エドは少女の後に続いて中に入った。




「何があった?」
向かいのソファに座ったスタイナー教授が栗色の髪の少女に問う。
結局エドは、長い手足を折り曲げ、彼女の隣に座っている。
問いに答える前に、少女はその彼をちらりと見た。
聞かれたくない話かもしれない。
これ幸い、席を外そうと立ち上がりかけた青年を、スタイナー教授が身振りで制す。
「レナ。 君が、一人で解決できない問題が起こっているんだろう」
少女は躊躇いがちに首を縦に振る。
「では、彼にも聞いてもらおう。
 このニルセン君は研究室で一番優秀だし、何より信頼がおける。
 場合によっては、彼の力が必要になるかもしれない」

(まじか。 頼むよ・・・)
嫌な予感的中。 エドは、内心頭を抱える。
学会の準備で多忙を極める今、他の事をやっている暇は、正直、無い。
だが、この老人は一度言い出したら絶対に引かない。
彼は経験上、そのことをよく知っていた。

「良いか?」
「・・・・・・僕にできることがあるのでしたら」
恩師の頼みに、半ば諦めの境地で返答する。

黙って聞いていた少女の顔に惑いが浮かんだが、それも数瞬のこと。
強い意志を秘めた瞳を上げる。
「私は、レナリア・ハーコヴィッツ。 パウロ・ハーコヴィッツの娘です」
「あの・・・ハーコヴィッツ博士?」
思わず聞き返した青年に、少女は頷いた。




・・・誰もが知っている、その名。
パウロ・ハーコヴィッツ博士は、英雄として人々の尊敬を一身に集める存在だ。
彼が中心となって開発した浮遊都市は、絶望に代わり、希望と新天地を人類にもたらしたのだから。
だが先月、博士は溶鉱炉試験場の視察中、事故に巻き込まれこの世を去った。
世界中を駆け巡ったそのニュースは、記憶に新しい。

実は、エドの向かいに座るスタイナー教授も、浮遊都市開発の元メンバーである。
ハーコヴィッツ博士とはおそらく旧知の仲であろうし、その娘と面識があってもおかしくはない。
────が、エドにとって、かの英雄は別次元の存在である。




「父が亡くなる少し前から、不審な事が続いたんです」
澄んだ少女の声が響く。
時折、研究室のデータが盗まれる。 コンピュータごと何者かに持ち去られたこともあった。
つけられているような気配も感じた、と言う。

そして数時間前の、謎の電話。
「部屋から逃げろ」 とだけ告げ、通話は切られた。
発信元は、非通知。
窓の外を見ると、確かに怪しい男たちの姿が見える。
屋上づたいに建物を脱した彼女は、生前の父の言葉に従った。
「何かあったら、キール中央大学のスタイナー教授を頼れ」─────。




「・・・あの研究の存在がどこかに漏れた、ということか」
スタイナー教授が低く呻いた。
「おそらく」
「完成はしたのか?」
「いいえ、用心して研究は中断しています。
 仕上がるまであとひと息なんですが・・・」
「中断したのは正しい判断だろう。
 君の部屋を襲撃した連中や、電話の主に心当たりはあるのかね?」
少女は栗色の髪を揺らして、首を横に振る。
「残念ですが、両方ともありません」
そして、ここまで追跡された様子はないと思う、と付け加えた。
「そうは言っても油断できんな。 もしあれを奪われたら、取り返しがつかん」
教授がため息と共に苦々しく吐き出す。
・・・どうやら、大変なことに関わってしまったらしい。
エドは唾を飲み込んだ。
ハーコヴィッツ博士の研究を、狙う者がいる。
そして、それはどうやら、少女の身に危険をもたらす程大変なもののようだ。

スタイナー教授は顎に手を当ててしばし考えこんでから、面を上げて言った。
「レナ、今夜はここで休みなさい。 だが明日からは別の場所に移ろう。
 そしてニルセン君。
 これから君をこき使うことになるだろうから、そのつもりでいたまえ」




詳しいことは明日連絡するということになり、深夜遅く、エドはようやく解放された。
くたくたになって辿り着いたベッドで穏やかな眠りを貪る。
至福の時だ。
だが乱雑に散らかったその部屋に、早朝から無機質な呼び出し音が響く。
「・・・はい、エド・ニルセンです」
「まだ寝ていたのかね」
スピーカーから呆れた声が聞こえた。
「準備して、すぐこちらに来なさい。 やってもらいたい事がたくさんある。
 それと、今度の学会はキャンセルだからな」
「そんな!」
一気に目が覚めた。
「人類の未来がかかっておるのだから、つべこべ言うんじゃない!
 では、頼んだぞ」
「・・・」
途方に暮れるエドを残し、スタイナー教授は一方的に回線を切ってしまった。

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