虚空の方舟 4

「ちょっとだけ、外に出ない?」
前髪をさんざんいじりながら迷った挙句、ようやく隣に声をかけた。
エドは、レナを散歩に誘った。
ここはエイオスのはずれ。
少し外の空気を吸うくらい、そうそう目立つ事はないだろうと、一応考えての事である。
作業に没頭する彼女は、どこか張りつめた空気を纏っている。
息抜きをさせてあげたかった。
少女は一瞬目を見開いたが、微笑して頷いた。

彼らの奇妙な共同生活は、概ねうまくいっている。
レナは作業以外の場面だと、明るく少女らしい面がある。
エドはそもそも、誠実で穏やかな性質だ。

スタイナー教授とは一日数回、お互いの進捗状況を知らせるのみ。
ハーコヴィッツ博士の知己である彼は、レナとの繋がりを疑われやすい立場にある。
少女を追う相手が分からない以上、不審な行動を極力避けねばならなかった。
そして、見えない敵は、それを探る教授に容易に尻尾を掴ませてくれないようだった。




建物の外に出ると、ガラス越しの地平線に夕陽がちょうど落ちていくところだった。
どこまでも続く荒れ果てた大地が赤く染まり、二人の背後に聳える 「ゴリアテ」 と大小のドームは斜陽を反射して煌いている。
黒髪の青年は、彼が生まれる以前の、人々が地上に住んだ時代を想像する。
彼が知るのは、浮遊都市の中だけの世界だ。




大戦後、人類の社会システムは一新された。
浮遊都市が台頭し、領土の統治を主体とした旧体制が崩壊したのだ。
現在、浮遊都市はそれぞれの自治を保ちつつ、共同体の最大単位として機能している。
領土という概念は過去のものとなり、同時に地上の国境線も消えた。
地図には浮遊都市を示す流動的な点のみが記される。

浮遊都市を中心に社会が機能しはじめ、誰もがその平穏を歓迎した。
けれど、滅亡が先送りになっただけだと人々が気づくまで、時間はかからなかった。
森や草原の大部分が地上から消え、その回復のスピードは予測を遥かに下回っているのだ。

大気中の酸素濃度は確実に下降し続けている。
だが、浮遊都市の維持が最優先されるこの時世において、地球の緑化や大気の生成にまわせる人材や資源は多くない。
この星が蘇るのが先か、人類がこの世から消え去るのが先か。
今は安穏としていられたとしても、百年後、千年後の未来は誰にも分からなかった。




「・・・生命に溢れた星だったはずなのにね」
不毛の大地を前に、少女は呟いた。
そこには、なぜか懺悔に似た響きがあった。
不思議に思いつつ、エドは頷く。
だが、同時に別のことを考えていた。

それは、少女の母親についてだ。
ハーコヴィッツ博士に娘がいるなど聞いたことがない。
レナが席を外した隙に調べたりもしたが、彼女に関する記事は全く見当たらなかった。
博士が結婚していた事実すらない。
少女が自分を騙しているとは思わないが、腑に落ちない事実なのは確かだ。
思い切って疑問を口にすると、少女は信じられない内容をあっさりと口にした。
「母親? さあ、会ったことないし、どこの誰かも知らないわ」




少女の告白は淡々と続く。
「私は、 『Belenus』 のために、父が選んだ卵子によって生まれたの。
 父は、私に与えられるだけの知識と技術を注ぎ込んだわ」

ゆえに、彼女の存在は公にされなかったのだという。
幼少時より施された英才教育を終え、能力的に十分だと判断された数年前から、彼女はハーコヴィッツ博士の助手として 『Belenus』 の研究に関わった。
スタイナー教授には以前、研究に必要な古いコンピュータ言語のレクチャーを受けた、という。
教授は、『Belenus』 と彼女の秘密を知る、貴重な存在だ。
「生物学的に言えば、父はパウロ・ハーコヴィッツ。
 でも、家族と言えるかは・・・分からないわ。 共同研究者ではあっただろうけど」
疑うなら、DNA鑑定でもしてみる? と真顔で聞かれる。
呆然と耳を傾けていたエドは、慌てて首を振った。

夕陽に向き直った少女は、半ば独り言のように呟く。
「でも小さい頃、家庭教師が褒めてたって、時々父が頭を撫でてくれたの。
 最近、よく思い出すのよ」
忘れてたのに不思議ね、と目を伏せる。
その口調に、偽りはないように思えた。

「変なこと聞いてごめん」
「いいの。 私、あなたに言ってないことたくさんあるし」
少女はいたずらっぽく笑い、逆に彼に質問する。
「あなたのご両親は、何をなさっているの?」
「都市間の貿易に携わってた」
「今は?」
「七年前、空賊に襲われて死んだ。 運が悪かったんだ」
都市の周囲は保安部隊によって守られているが、都市間の空白地帯では、時に空賊が現れ、貨物船の積荷を奪う。
「・・・私こそ、ごめんなさい」
「気にしないで。
 本当なら、僕は大学を辞めて働くはずだった。でも、教授が僕を買ってくれて助手にしてくれた。
 お陰で好きな研究が続けられたんだ。 僕は運がいいんだよ」
安心させるように彼女に笑いかける。
そして、二人は黙って夕陽に見入った。




そんな彼らを、離れた場所から観察する者がいる。
その影は、「呑気なもんだねえ」 と呟いた。
背後の視線に気づかぬまま、やがて二人は建物の中へ戻っていった。




部屋に戻り、しばらくしてふと横を見ると、レナはデスクに突っ伏して眠っていた。
徹夜に近い状態が続いたので、無理もない。
傍にあった仮眠用の毛布を取り、そっと少女の肩にかける。
その時、彼女の白い頬に涙が一筋つたい落ちた。

────どこか寂しげだった少女の横顔を思い出すと、胸が痛かった。

かの英雄は、『Belenus』 で少女に何をさせようというのだろう。
偉大な父の死。
危険なウイルス。
それらは、ひとりで背負うには重すぎるのに。

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