虚空の方舟 5

────最愛の人が目の前で炎に包まれる。
必死で伸ばした右手は、彼女に届くどころか、人形のように燃え落ちていく。
だが自分を支配したのは、痛みよりも絶望だった。

恐ろしい喪失感を伴う幻覚から、我に返る。
いや、その言い方は正しくない。
自我は、あの時、捨ててきたのだ。
業火に灼かれ、義手となった右手が、疼くような錯覚に囚われる。
絶対にあの男を、この世界を許してはならない────。



* * *



開発を進めて数週間が経った。
元々、完成まであと僅かだった 『Belenus』 は、遂に最終段階を迎えている。

けれど今、エドとスタイナー教授は、レナの提案に頭を抱えていた。
『Belenus』 の仕上げとして、エイオス最高の学術機関であるキール中央大学のメインコンピュータを使って大がかりな検証を行うことを彼女は主張したのだ。
確かに、それを使えばどんなに複雑な計算もあっという間に終わるだろう。
また、この検証を省いて 『Belenus』 を使用すれば、思わぬ方向に暴走する可能性が捨て切れない。
しかし、危険も伴う。
アクセスポイントが割り出されれば、そのままそれは、ここが特定される事を意味する。
三人でさんざん議論し頭を悩ませたが、結論を出したのはスタイナー教授だった。
「レナの案通りに、検証を行う。 ただし、くれぐれも慎重に、だ」
彼の決定に従い、エドとレナはすぐにその準備に取り掛かった。




「始めます」
とうとう、検証を実行する日が来た。
レナはいつも通り落ち着いているが、見守る年長者二人の顔にははっきりと緊張が浮かんでいる。

ダミーのアクセス元を起動させると同時に、レナは侵入を開始した。
エイオス最高学府が設置した幾重ものセキュリティゲートは、彼女の前では無力に等しい。
数瞬もかからずゲートのロックを解き、メインコンピュータに到達する。
(予想以上だ)
後ろで見ていた教授から感嘆の溜息が洩れる。

「検証、開始します」
レナは、この検証に約32分かかると試算していた。
「第一セクション、スタート」
画面に大量の文字列が流れていく。
それを眼で追いながら、細い指が軽やかにキーボードを叩く。
第二、第三、と問題なく検証は進む。
だが、第十五セクションまで来た時。
エドが操るサポート画面に、アラートが表示された。
大学内からのアクセスに見せかける保護プログラムが、突破されたのだ。
「侵入に気づかれました!」
「あと、もう少しだっていうのに・・・」 エドの言葉に、教授が呻く。
「このまま、検証を続けます。
 妨害できないように、データの周囲に壁を作っていますから、それは問題ないでしょう」
冷静さを保ったまま、レナが言う。
あと、13分。




エイオス閣僚会議の議場に、若い男が一礼して入室した。
会議のテーブルにつく 一人に近寄り、耳打ちする。
その壮年の男は 「失礼」 と愛想よく周囲に言い置いて、席を立った。
若者を従え、廊下へと移動する。
周囲に人気がないのを確認し、男は報告を促した。
「・・・中央大学のメインコンピュータに、レナリアと思われる侵入があります。
 アクセス元は16箇所ありますが、どういたしますか?」
眉を上げた初老の男は、低い声で指示を出す。
「可能性が高そうな方から5つに絞って、3人ずつ向かわせろ。
 メインコンピュータでは何が行われている?」
「何かの検証のようです。
 大規模な計算が行われていますが、防護障壁が高く、手が出せません」
「断片でもいいから、拾えるだけのデータを集めろ」
「了解しました」
「行け」
「はっ」
若い男は足早に去っていく。
その後姿を見送る男の両眼には、議場で愛想を振りまいていた時とは別人のように、どこまでも暗い炎が灯っていた。




「あとどれくらいかかる?」
「もうすぐ終わります」
彼女の言葉通り、1分も待たず解析終了を知らせるアラートが表示された。
(終わった・・・) エドは額の汗をぬぐった。
作業完了。
それは恐ろしいウイルスの誕生を意味したが、エドは一瞬、苦労が報われた事を安堵する。
「使用したメインコンピュータのエリア全域を抹消」
同時に、ウイルス本体と計算結果、そして必要なデータをチップにコピーする。
しかし、メインコンピュータのデータを抹消しても、残った断片からこれが 『Belenus』 だと推測する事は可能だ。
ましてや、『Belenus』 を狙う者は、ネットワーク上でレナに対する網を張っているはずだ。
彼女の大がかりなハッキングを見過ごすとは思えなかった。
「急げ、ここはもう危険だ」
コピー終了と同時に、マイクロチップを引き抜いて、全てのコンピュータをダウンさせる。
「逃げるぞ!」
教授の声と共に、二人は立ち上がる。




三人の男を乗せた黒塗りの車が止まった。
揃いの制服らしきものを着ている。
彼らは警戒するように辺りを見回し、車から降りた。
「ここの三階だ」
一人がそう言って目の前の建物を仰いだとき、彼らの耳にかけた小型の無線機に通信が入る。
彼らの目的の部屋の主は、偽名を使っている可能性が高い、らしい。
「ここが一番怪しいな」
「取り逃がすと厄介だ、急ぐぞ」
三人は頷き合うと、素早い身のこなしで建物の入口に消えた。




階段の上方の踊り場から部屋に男たちが入るのを見計らって、レナは制御装置のスイッチを入れる。
「ドゴォッ!!」
彼らが入った部屋から、爆発音が響く。
小規模の爆破と催涙とで部屋を吹き飛ばし、コンピュータの破壊と追っ手の足止めを同時に行ったのだ。
「走れ!」
階段を駆け下りながら、エドは少女に尋ねる。
あの小型の爆弾は、いつの間にかレナが用意していたものだった。
「あれ、誰に教わったの?」
「父よ」
・・・英雄というより、まるでマッドサイエンティストだ。
エドはその感想を心の中だけに留め置いた。

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