虚空の方舟 6

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一瞬、何が起こったか理解できないまま、彼は壁に激しく叩きつけられた。
しばらく、背中の痛みと目に入る刺激に悶絶する。
ようやく目の痛みが治まり、辺りを漂う粉塵にむせながら、同僚を助け起こして状況を確認した。
一人は、アバラをやられてしまったらしく、胸をおさえて脂汗をを浮かべている。
先ほどまで所狭しと並んでいた様々な機器は、今は残骸となってあらゆるところに飛び散っていた。
壁に手をつきながら窓の外を見ると、シルバーの小型車が走り去るところだった。
例の娘が助手席にちらりと見えた。
彼は、自分たちが完全に嵌められた事を悟った。

功をあせって、他のチームに連絡しなかったのは、痛いミスだった。
たかが小娘程度と油断していたのだ。
このミスは、何が何でも取り返さなければ。
上司の背後に控える 「あの人」 の、暗く、鋭い眼を思い出す。
どうにか耳に引っ掛かっていた小型の無線を開き、他のチームに呼びかける。
「レナリアを発見、ユグノー社製、シルバーのシリウスで逃走中だ」



* * *



こちらが先に男たちを発見したのは、幸運だった。
階段とエレベータの二手に分かれた男たちが三階に到着したのと、エドら三人が上階の踊り場に身を隠したのは、ほぼ同時。
見つからなかったことに、エドは心からほっとした。
まともに争って勝てる相手ではない。
訓練された動きで銃を構える男たちを思い出し、自分の危険な立場を改めて実感する。

運転席の青年は、後部座席の教授につい嫌味を言ってしまう。
「うまく逃げ出せたのは良かったですけど、まさかこのままカーチェイスなんて嫌ですよ」
「うむ、その可能性は大いにあるな」
「冗談なんだから否定してくださいよ! 全くあなたはいつもいつも・・・」
「そっちが言ってきたんだろう」
「あーーーもう!
 言い合いなんかしてる場合じゃないですよ、教授も、エドも!」
助手席のレナが割って入る。
「あそこを突き止められた以上、スタイナー教授の 『Belenus』 への関与が知られるのは時間の問題よ。 急がないと、あなたのことまで連中に知れてしまうわ、エド」
そうだった。
スタイナー教授がレナに協力していると、いずれ相手にはバレてしまうだろう。
教授はこのまま、彼女と行動を共にするようだが、自分は。
「とにかく、ステーションから 「ゴリアテ」 へ向かう」
「・・・わかりました」
教授の言葉に頷いて、エドは運転に集中する。
滑るように走る銀色の車は、その速度を上げた。




しばらく車を走らせたところで、彼らに味方していた幸運は、嘲笑うようにその手を放した。
エドの揶揄は、現実のものとなったのだ。
サイレンを鳴らしながら追いすがる数台の警察車両が、バックミラーに映る。
「そこの車、止まりなさい」
ノイズと共に、スピーカーががなりたてた。
間違いなく、自分たちに向けられている。
「どうすんですか!」
「逃げるに決まっとるだろう!」
無茶だ、とエドが言いかけた時。

「エド、スピード上げて!」
助手席と運転席の間に備え付けられたナビゲーションシステムの画面を見ながら、少女が叫んだ。
少女は助手席から手を伸ばし、強引にハンドルを切る。
三人を乗せた車は、恐ろしく急角度で角を曲がった。
ついてこれなかった警察車の一台が、ものすごい勢いで歩道に乗り上げる。
「アクセルよ! もっと踏んで!」
「ええ!?」
「早く!」
銀色のシリウスはますます加速し、赤信号を完全無視して、車の往来する交差点に突っ込んだ。
エドは、思わず目を瞑る。
だが、横合いから手を伸ばしたレナの絶妙なハンドル捌きで、車の隙間を縫うようにすりぬける。
その後方で、派手な衝突音が響いた。
教授が振り向くと、横転する小型トラックと、フロント部分がひしゃげた警察車。
後から来た二台がそれに足止めされている。
しかし、残り一台が依然、執拗に彼らを追い上げてくる。




「エド、車だめにしちゃうかも! ごめんなさい!」
言いながら、さらに彼女は思い切りハンドルを切った。
エドの小型車がぎりぎり入り込める細い路地が目の前に現れ、そこに猛スピードで進入する。
追跡する方も車体を無理やり捻じ込もうとしたが、幅のあるそれには無理だった。
その警察車両は諦めてUターンし、引き返していく。

ガガガ! と凄まじい音を上げ、ボディの両側を壁に擦りながら、車は路地を突き進む。
激しい振動に、エドは舌を噛みそうになる。
が、それをものともせず、雑音に負けないよく通る声でレナは再度叫んだ。
「クラクション! 鳴らして!」
反射的にハンドルの中央を叩く。
けたたましい騒音とクラクションと共に、銀色のシリウスは路地から飛び出した。

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