虚空の方舟 7

路地の終点の段差で、車は一瞬宙に浮いた。
直後、「ガゴォッ!」 という騒音とともに衝撃が三人を襲う。
スタイナー教授の目の端で、歩道を歩く中年の女性が、路地から突如現れたこの車を慌てて避けるのが見えた。
着地から間髪入れず、少女は車道の方向へとハンドルを切る。
「あ、あぶな・・・!」
エドが言い終わる前に、シリウスを走行する車の間に無理やり割り込ませる。
「キキィイーーーー!」
後方車両のブレーキが鋭い悲鳴を上げ、寸でのところで接触は回避された。
怒りに満ちたクラクションに、後部座席のスタイナー教授が謝罪のジェスチャーを送る。

そのまま流れに乗り、運転の主導権は再びエドに返された。
ハンドルを握りながら、半ば放心したように呟く。
「・・・逃げ切れた?」
バックミラーを睨みながら、苦々しく少女は返す。
「まだみたいね」




新たに、三台の警察車が派手なサイレンと共にこちらに向かってくるのを、エドもミラー越しに確認した。
徐行した車を次々と追い抜き、距離を詰めてくる。
このままでは、再び追いつかれてしまう。

「しつこいわ」
呟いたレナは鞄から小型のコンピュータを取り出し、小さなキーボードに何かを素早く打ちこむ。
と、通り過ぎる交差点で次々と、信号全部が青に変わってゆく。
同時に、全ての方向から車が発進し、接触事故や進退ままならない車で交差点が大混乱に陥った。
それにはさすがに、警察車も追跡を阻まれる。
サイレンが次第に遠ざかってゆく。




「今度こそ、逃げ切れたようだな」
「そうみたいですね」
後方を確認し、運転席の青年と後部座席の老人は、ほぼ同時に安堵の息をついた。

「信号のセンサーを操作したの?」
「・・・ええ」
間を置いてやや冷静になったエドの問いに、レナはバツが悪そうに頷く。
それ以上何も効かず、彼はただ溜息をつきそうになるのを堪えた。

鮮やかなハッキングの技術に、催涙爆弾、そして追っ手を振り切る手腕。
エドは、彼女が受けてきた英才教育とやらの中身を想像する。
それは、こんな少女が身につけるべき技術ではないはずだ。
レナが達成しようとする英雄の目的はまだ不明だが、それは正義と呼ばれるうちに入るかもしれない。
────けれど。
想いを払うように首を振り、青年は運転に集中すべく前を見つめた。




ステーション裏の路地に車を止め、三人は慎重に車を降りた。
彼ら以外に人影は無い。
改めて車を見ると、あの路地での無茶な走行によって、ボディの両側は傷だらけだった。
(そういえば、ローン払い終わってなかった・・・)
がっくりした気持ちで、エドは車体を撫でる。

「エド、ごめんなさい」
すまなさそうに、レナが謝る。
「いや・・・いいよ」
頭を振る。
まあ、追っ手を振り切れただけ良かった。

「で、僕の役目はここまでのはずですけど」
事前の打ち合わせでは、レナの逃走を補助するまでが彼の役割だった。
だが、この車であれほど派手な逃走劇をやらかしたのだ。
「僕の身元も、きっとバレちゃいましたね」
「・・・申し訳ない、ニルセン君」
今度こそ、真剣な面持ちで老人は言った。
「いいです、こうなるような気がしてましたし。 なので」
もう、心は決まっている。

「お二人さえ良ければ、最後までお付き合いします。 毒を食らわば皿まで、ですよ」
目の前に立つ二人が目を見開く。
自分はひどいお人好しなのかもしれない。
しかし、恩師に報いるために、そしてレナのどこか孤独な姿に、何かしたいと願う自分を止めたいとは思わなかった。
・・・たとえ、その先に思いもよらない災厄が自分の身に降りかかるとしても。
「いいのか?」 という教授に向かって、はっきりと頷く。
少女の方は、沈黙を保ったまま微妙な表情で彼を眺めていたが、拒絶する素振りはなかった。
「味方は一人でも多い方がいい。
 君の申し出を、ありがたく受けよう」
いつも通りの重々しい声に、黒髪の青年は微笑んでみせた。




「とりあえず、そこのステーションから 「ゴリアテ」 に向かおう」
「ええ」
周囲をもう一度見まわし、三人は早足で歩き出す。
最後に、乗り捨てていく車を名残惜しく見やり、エドは前を行く二人の後に続いた。

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