虚空の方舟 9

追跡者の鼻先で、空間は完全に遮断された。
男は、悔し紛れにシャッターを蹴飛ばす。
壁に取り付けられた制御装置のボックスを銃で破壊したい衝動に駆られたが、どうにか自制する。
一つ息を吸って頭を切り替え、仲間に作業員を連れてくるよう命じた。

男のやつあたりを完全に無視して、レナはまっすぐエレベーターに向かう。
階下へ向かうボタンを押し、次に壁に一つある小窓の外を確認した。
逃走を開始してからすでに数時間が経過し、外はもう薄暗い。
少女は鍵を外し窓を開けて、エドに先に行くよう促した。
「ここに隠れましょう」
彼女が示した先は、窓の外の幅二十数センチの庇(ひさし)だった。
ここから地上まで4〜5m。
足を踏み外せば、無傷では済まない。
「・・・ここ?」
「つべこべ言わずにやるのよ!」
「あたっ」
殺気立った少女にどつかれ、エドはよろめく。
言われた通り小さな窓をくぐり、恐る恐る庇に足を乗せる。

その時、エレベーターが来たことを知らせる電子音が鳴った。
レナは行先ボタンを押して、空のままそれを行かせる。
そして、軽やかに窓を通り抜け、鞄から出した細い針金を窓の隙間に通し、器用に鍵を閉める。
壁にしがみつきながらその様子を見ていたエドだったが、今日一日の出来事を思えば、その手際の良さも驚くに値しなかった。
彼女なら、幾重もの電子ロックに守られた金庫でさえたやすく開けてしまうに違いない。




一方、ホールの外側では、厚いシャッターに行く手を阻まれた男たちが、現場の作業員を捕まえてロックを解除させていた。
苛立つ彼らにびくびくしながらも、作業員はどうにか解除を成功させる。
「ヴィーー・・・」
耳障りな音と共に、シャッターが上がる。

彼らは銃を構えながら、ホールへと踏み込んだ。
だが、そこに逃亡者の姿は無かった。
念のため隅の方に乱雑に積まれている箱を開けてみたが、入っていたのはマグレヴの整備に使う道具やパーツばかりだった。
一人が窓に目を向けたが、鍵は閉まっている。
彼は形ばかり外を見ただけで仲間の方に向き直った。

男たちの視線の先で、エレベーターの行き先を告げるデジタル表示が地下2階で止まった。
一人が無線に呼びかける。
「こちら、マグレヴ整備場。 搬入用エレベーターで二名が逃走。
 地下2階のエレベーターホールと付近の出入口を封鎖しろ。 我々もすぐそちらへ向かう。
 なお、アルフレド・スタイナーの身柄を確保。 繰り返す、アルフレド・スタイナーの身柄を確保した」




エレベーターホールの気配が消えた後、少女と青年は壁づたいに地上へ降り立つ。
途中エドは足を踏み外しかけ、レナが服を引っ張ったために危うく転落を免れた。
無事地面に辿りついたエドは、「こんなことは二度とするまい」 と心に誓った。

そこは、人通りが少ないグランドセントラルステーションの裏手だった。
地下へ応援に行っているのか、辺りに警察官の姿は見えない。

(教授は無事だろうか)
その思いがエドの頭を離れない。
教授の怪我は、致命傷ではおそらくない。 だが────。
「教授なら、きっと無事よ。
 情報を聞き出すにしても、人質として利用するにしても、相手にとって貴重な切り札だわ」
彼の懸念を見透かして少女は言う。
「逆に、私たちが捕まれば、教授を助けることもできない」
「・・・君の言う通りだ」
強い意志が宿った茶色の瞳にエドは頷き返す。

二人は闇にまぎれて路地を歩きはじめる。
だが、逃げおおせたと油断するには、まだ早かった。




「動くな」
突如、エドの後頭部に銃が突きつけられた。
暗闇から、影が姿を現す。
エドにはやや劣るが長身の、引き締まった体躯。
その両目は、威圧を湛え、闇の中で鋭く光っている。
「言っておくが、この先にも、昼間あんたたちが吹っ飛ばした奴らの仲間がいるぞ」
低くそう告げる声は、驚愕と共にエドの耳を打つ。
部屋を爆破して追っ手を食い止めたのを、この男は知っている。

「お前、誰なんだ」
「さあな」
見知らぬ男は、精悍な顔に食えない笑みを浮かべる。
だが、レナはその声に聞き覚えがあった。
「・・・あなた、私に 『逃げろ』 と警告した人ね」
「どうだかな」
男は目を細めた。

レナの部屋が何者かに襲撃された晩。
直前に正体不明の警告があったために、彼女は難を逃れることができた。
・・・だが、警告したのが彼だとしても、二人の味方でないことは火を見るより明らかだ。

「あいにく、記憶力には自信があるの。
 いつから私を見張っていたか知らないけど、あなたに関わってる暇はないわ」
「そうもいかん」
男は嘲るように喉を鳴らす。
「『Belenus』 を渡してくれないか、お嬢さん」
「何のこと?」
「嘘は良くないな」
この男、どこまで知っているのだろう。 エドの額に冷たい汗が浮かぶ。
「俺こそ、あんたたちの鬼ごっこにつきあってる暇はない。 さっさと寄こせ」
「・・・渡さないと言ったら、どうするの?」
「こいつの頭を吹っ飛ばす。
 俺は一度しか言わない。 渡さないなら次はお前さんの番だ」
後頭部のすぐ後ろに銃口の気配を感じ、エドはたじろぐ。
小さく息を吐いて、レナは応じる。
「わかったわ。 靴底に隠してあるから、動くわよ」
目を見開いた黒髪の青年に、レナは僅かに目配せをして、屈みこむ。




次の瞬間。
レナはエドごと、男に足払いをかけた。
さすがに、それは男も予想していなかったらしく、バランスを崩して後ろに倒れこむ。
弾みで撃たれた弾がエドの髪を掠り、壁を焦がす。
少女は体を起こすと同時に、鞄からスタンガンを取り出す。
男が反応するより早く距離を詰め、その首筋に当てた。
「何を・・・!」
バチッと電気の弾ける音と共に一瞬火花が散り、男は昏倒した。




「・・・武装解除、っと」
大の男をあっさり倒した少女は、ぶつぶつ呟きながら、銃を拾い上げてモノを確かめている。
尻餅をついたまま、エドはその様子しばし茫然と見つめていた。
「あ、せっかくだからエドも武装しとく?」
ふと思いついたように、少女は男が腰に下げていたナイフを外して今だへたりこむ青年に投げて寄こした。
どさりと膝に沈み込むその重さで、我に返る。
「・・・僕が撃たれたら、どうしたの」
「救急車を呼んだわ」
あっさり答えられ、脱力する。
そんな彼に目もくれず、少女は手際よく男のガンホルダーを外し、「サイズが合わない」 などと勝手なことを言いながら上着の内側に装着する。
次に、男の耳にかけられた無線装置をつまみ上げ、顔を顰めた。
「この人、あんまり耳掃除してなさそうよね」

ポケットもすべて確認し、使えそうなものはすべて彼女の鞄に収まった。
まるで、追剥ぎだ。
そんな少女に呆れながら、言う。
「君のその鞄って、四次元ポケットみたいだね」
「何の話?」
少女は、怪訝な顔で返す。
エドの母親の出身国に伝わる青い猫型ロボットの話を、彼女は知らなかった。

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