虚空の方舟 17

吹き飛ばされずに残ったバルコニーの柵にロープの鉤を掛け、数メートル下の地面目がけて一気に滑り降りた。
柔らかい芝生に足が着いた瞬間、それを蹴って外と敷地を隔てる壁に駆け寄る。
壊れた窓から顔を覗かせた男がセジルかユンの威嚇射撃に怯んでいる隙に、少女は小型の爆弾を放り投げて植込みの影に伏せる。
「ドゴッ!」
爆音の後、破壊した壁をすり抜けた少女の痩身は、瞬く間に敵の射程距離外へと姿を消した。




「勝手な行動しやがって、お前が死んだら全て台無しだ。 わかってんのか!」
レナを素早く車内に招き入れたセジルは、次の瞬間彼女を怒鳴りつけた。
湧き上がる怒りに任せ、拳で壁を殴りつける。

スタイナー教授の身柄を保護するという作戦の目的は達成された。
彼女が建物を脱すると同時にウサドとシャオもゲルンの屋敷を無傷で退いている。
だが、危険極まりない彼女の綱渡りに怒るなという方が無理だ。
「・・・あなたの言う通りだわ。 ごめんなさい」
少女の素直な謝罪に、セジルは大きく息を吐く。
「とにかく、今すぐエイオス脱出だ。 待機中のバリーと合流する」




スタイナー教授を連れたレナとセジルを窓の外に認めて、エドは心の底から安堵した。
無線を通じ、分断されたレナが一人屋敷に残ったと知って心臓が凍りつくような心地でいたのだ。
スタイナー教授の方は薬物によって多少意識が混濁しているものの、足の怪我も含めて命に別状はないと知り、更に胸を撫で下ろす。
恩師の体を支えながら、黒髪の青年はセジルに深く頭を下げた。




エドが待機していた車には、3つの棺が積まれていた。
レナと教授はそれぞれ空の棺に身を隠す。
もう一つの棺には、セジルがどこからか調達した本物の死体が入っている。
葬儀屋を偽装して空港に向かい、エイオスを脱出する計画なのだ。
セジルが葬儀屋の服に着替える間、エドは黙って自分の指先を見つめた。

彼は、死体の親族ということになっている。
髪色を変えて偽のIDを携行すると同時に、最近ウルスで開発されたという、指紋を精巧に模した薄い膜を指に張りつけている。
科学者の末端にあって、分野外の研究にもそれなりに詳しい彼ですら、その素材は聞いたことのないものだった。
目の前の男が属する特殊機関や軍が、極秘で様々な武器や道具を開発すること自体、歴史的にも社会的にも常識だが、実際その成果を目の当たりにして驚きを禁じえない。
そのように告げると、 『Belenus』 もそうじゃねえか、と男は食えない表情でニヤリと笑った。

エイオスの指紋照合機が、この偽装を見破る可能性は3%だという。
それが高いのか低いのか分からない。
挙動不審にならないことが肝心だ、というウルスの密偵の言葉をエドは反芻する。




しばらく車を走らせると、すでに大がかりな検問が始まっていた。
通過する全ての車を止めてチェックしているが、一台にかける時間はそれほど長くない。
エイオスの主要道路の中でも最も交通量が多いこの幹線道路は、その分チェックが甘くなりがちだと踏んで彼らはこのルートを選んだ。
緊張を全く感じさせない顔で、男は車を脇に寄せる。
小型輸送車の横に立った若い警察官が、運転席の窓を開けるよう指示する。
彼は、差し出された身分証をしげしげと眺めた。
「葬儀会社か」
「はい。 昨晩の事故で亡くなられた方の遺体を運ぶ途中なんです」
「証明書は?」
「こちらに。 輸送許可証も入ってます」
予め用意した書類を見せる。
別人の如く丁寧な男の対応に、密かにエドは目を丸くした。
諜報員という職業は、実に様々な仮面を持つものらしい。

書類をチェックした後、遺族だと紹介されたエドをちらりと見て警察官は彼のIDの提示を求めた。
小型の照合機で指紋との一致を確認する。
IDを戻して、彼は運転席に向き直った。
「申し訳ないが、一応後ろも見せてくれるか」
内心でエドは胸を撫で下ろす。

後方のハッチバックを開け、セジルはこちらです、と三つの棺に向かって顎をしゃくった。
「開けてくれ」
手前の棺を示した警察官に、セジルがいかにも神妙な表情を浮かべ囁く。
「実は、結構大きな事故に遭われたので状態がひどいんですよ。
 心の準備をお願いします」

彼が棺の蓋が開けた途端、警察官は目を背けた。
早く閉めろと言わんばかりに手を振る。
すいませんね、と言いながら男は蓋を閉める。
「他の遺体も同じような感じですが、どうします?」
「もういい。 行ってくれ」
心中ニヤリと笑い、セジルはハッチバックを閉める。
走り去る車には目もくれず、警察官は次の車の運転席に声をかけた。




カルデナ空港。
浮遊都市エイオスの旅客と輸送の中枢を担う巨大な空港だ。
中程度の浮遊都市をまるごと使用した施設内には、十数のターミナルと無数の倉庫が立ち並ぶ。

見上げるほど高いゲートをくぐり、彼らを乗せた車両は、物品の輸送に使われるエリアへと向かう。
空港は検問以上に物々しい雰囲気に満ちていた。
あちこちで銃を構えた保安部隊が巡回している。

行き先を振り分ける小ゲートの係員に書類を提示し、待つこと数分。
緊張の内に時間が過ぎていく。
だが、最初こそ胡散臭げに車を眺めまわしていた保安部隊の男も、書類と登録情報が確かだと知るや途端に後ろの車に興味を移した。
セジルは差し戻された書類を愛想よく受け取り、ハンドルを切る。
レナの照合データの改竄と書類偽造はほぼ完璧と言って良かった。

「さすが、ハーコヴィッツ博士の娘に間違いはない、か」
誰に言うともなく呟き、緊張を解く。
「そろそろ、お嬢さんとじいさんを棺から出してくれ」
上官の指示を受け、通路から後部に移動したバリーが棺の蓋を開ける。
「ぷはぁっ」
勢いよく起き上がったレナが、大きく息をつく。
「あーーーー苦しかった」
「おい、窓に近づくなよ。 その辺まだ人がうろうろしてんだ」
「わかってる」
言いながら、バリーが教授を助け起こすのを手伝う。
ようやく意識がはっきりした教授は、肩を借りつつため息混じりに言った。
「・・・やれやれ。 生きているうちに棺桶に入るとは思ってもみなかったぞ」
エドは、初老の科学者に苦笑いを返した。




* * *




「まだ捕まらないだと? 一体何をしている!」
内閣府の一角、イゴリー・ゲルンの執務室に鋭い檄が飛ぶ。
襲撃者が退いてすでに一時間。
彼らの逃亡から間を置かず検問を敷いたが、獲物は今だ網をかいくぐって姿を現さない。

屋敷の襲撃によって部下が数名負傷し、指揮下を離脱した。
中には、ゲルン個人に忠誠を誓った者もいる。
ゲルン自身はその部下に庇われ無傷で済んだが、手痛い損失だ。
そして、それ以上に男を焦燥たらしめるのは、他の都市による 『Belenus』 への干渉だ。
エイオスの情報部はゲルン自身が掌握していること、レナリアの協力者が工作専門の訓練を受けており、尚且つ組織だった動きをしていることからして、これは動かしようのない事実だった。
となれば、彼らは早々にレナリアをこの浮遊都市から逃がすだろう。

そこでふと、娘と相対した瞬間を苦々しさと共に思い出す。
背後から娘の頭蓋を撃ち抜けば、それで事足りたのだ。
自分も、存外甘い。

上司の口元に浮かんだ酷薄な笑みを見やる部下の背に冷汗が伝う。
ゲルンは恐縮する男に目線を戻し、命令を下す。
「空港は引き続き厳重に警戒に当たれ。
 それと、飛空艇の出入記録データベースにハッキングの痕跡がないかもう一度よく調べろ」
そこで一旦切り、低く付け加えた。
「逃亡者は、見つけ次第全員殺せ」

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