虚空の方舟 20

数時間前目にした恐るべき光の矢を思い出し、ぞっとする。
少女の推測が正しければ・・・ゲルンは神に成り代わるつもりなのだろうか。
・・・恐怖に駆られたが、エドの理性はそれが可能だと告げている。
────『Belenus』 で 『神の雷』 を手に入れられるかと問われれば、おそらく答えはイエスだ。

深呼吸して感情を鎮める。
同時に、パズルのピース全てがあるべき場所に収まりゆくような感覚を覚えた。
いつかスタイナー教授が口にした言葉────「人類の未来」。

全ての疑問は、たった一つの答えに行き着く。
ディノ・ハーコヴィッツに連なる血の十字架を背負った親子の描いた未来とは、虚空に浮かぶ方舟を取り戻し、地球を再生すること。

それを贖罪だと信じて、彼らは危ない橋を渡り続けて来たのだ。




ゲルンか、レナか。

『神の雷』 を手にした方が、人類の未来を決める。
争いに敗れれば、どちらにとってもその先にあるのは破滅だ。
闇と光のように相反する二人の熾烈な争奪戦を予感し、エドは天を仰いだ。




ちょうどその時、秘書が二人を呼びに現れた。
長い廊下の先で、ウルス最高評議会議長が待つ扉の前で立ち止まる。
目に入った少女の白い横顔はどこまでも怜悧で、いつか見上げた月を連想させるのだった。




* * *




────室内では、少女とイェン・リンの駆引きがすでに始まっている。

冷静で知られるウルスの為政者が、僅かに目を瞠る。
「月を取り戻す?」
「はい、月の月面基地には手付かずの技術やDNAサンプルが残っています。
 それを、私達の手に取り戻すのです」
「だが、どうやって?」
「フォボス衛星監視局から、コンピュータウイルス 『Belenus』 を衛星に侵入させます。
 このウイルスなら、軍事衛星をコントロールする事が可能です」

フォボス衛星監視局は、大戦後、『神の雷』 に対処すべく太平洋の孤島に作られた施設だ。
以前は、ここを中心に浮遊都市同士が協力して軍事衛星を破壊するための様々な試みが為されたが、強力なレーザー放射や鉄壁を誇るシステムの前に為す術はなく、現在では名前の通り、かつて打ち上げられた非軍事用の衛星を利用した監視だけが継続されている。
それでも、フォボス衛星監視局は、地上で 『神の雷』 に最も近い存在だ。

一つの組織が恒久的にフォボスを管理することには主要都市が懸念を示したため、フォボス衛星監視局の管理権は数年おきに都市間を移行する。
今、管理権を有するのは、浮遊都市デルタ。
かつての大国ドゥールの人々が多く住む、世界第二の都市である。




「議長閣下には、フォボスへの介入にご協力いただきたいのです。 事は、急を要します」
少女はイゴリー・ゲルンが 『Belenus』 の複製を試みていることを告げた。
「彼の狙いははっきりしませんが、我々同様、目的は 『神の雷』 かもしれないのです。
 もしゲルンがあれを手に入れれば、その武力をもって世界を支配するでしょう」

レナの言葉に耳を傾ける女が、整った唇を開いた。
「・・・エイオスでのテロ行為と、十八年ぶりに地上に落ちた 『神の雷』。
 それらに関わったあなた方に味方すれば、各都市を敵にまわしかねない。
 私どもに何の益がありましょう」
冷たい声音に、レナは相手の切れ長の瞳を見つめた。
「ウルスなら、月面基地に残された技術や情報を有効に使うことができます。
 ここには、それだけの財政的な余裕と、技術開発に適した汚染されていない土壌があります」
リンは僅かに眉を動かす。
月面基地に残された貴重な技術やデータの存在は、もちろんリンも知るところだった。
少女は暗に、それらがウルスへ利益をもたらすと告げている。
現在、ウルスの収入の多くは、豊かな自然を生かした天然の作物だ。
緑化が進めばさらに多くの収入が見込めるであろうし、開発された技術を他の都市に提供することで得られる利潤もあろう。

「いずれは、かつてのように月よりも遠い外宇宙へと進出することも可能です。
 資源不足も解消することでしょう」
少女の言葉には迷いがない。
「私も協力を惜しみません。
 この頭脳を、ウルス、ひいては世界のためにお役立てください」
「レナっ」
自身を取引材料にする少女の言葉に、エドは思わず声を上げた。
けれど、彼女は僅かに笑って見せる。
落ち着きを払ったその微笑には、全てを賭けた覚悟が透けて見えた。
到底納得はできなかったが、堅い決意を前にして引かざるを得ない。

「・・・お話は分かりました」
優美な銀細工が施された机の向こうで、評議会議長は形の良い顎を頷かせる。
「ですが、例えば私がそのウイルスを奪い、あなた方をエイオスに売るとは思いませんか?」
温度のない、淡々とした物言い。
少女は年齢にそぐわぬ肝が座った物腰で切り返す。
「その場合は────私を裏切ればこのウルスに対し思いつく限りの攻撃を仕掛けます」
売り言葉に買い言葉とはこのことだろうか。
ハラハラするエドの額に、汗が滲む。




「・・・私はあなたを敵に回したくはない」
リンは、ふと目の光を和らげた。
「エイオスで、ハーコヴィッツ博士の元秘書とゲルンの取引した内容が流出したそうなのですよ。
 二人には今、博士の暗殺疑惑がかけられています。
 そのため、ゲルンは逃亡者の捜索のみならず、そちらを揉み消すのにも躍起になっているとか」

レナは、レメーニから得た情報をエイオスから脱出する時間帯に合わせて警察とマスメディアに送った。
揺らぐ感情から立ち直った彼女は、この事実を利用し、ゲルンの意識を逸らすことを思いついたのだ。
事件が発覚した後でディノ・ハーコヴィッツと博士の関係を公表しても、世論がどう転ぶか判断しづらい。
ならば、ゲルンは暗殺を隠蔽する方向に動くと予想した。
彼女の思惑通り、それは功を奏したようだ。

「あなたなんでしょう?」
美しい唇に笑みを浮かべ、リンは少女に問う。
レナは曖昧な表情で否定も肯定もしない。

「よろしい、協力しましょう」
議長閣下の一言に、肩の力が抜ける。
「今日明日とはいきませんが、なるべく早く準備を整えます。
 具体的な作戦などについては、情報部の者から追って連絡させましょう」
ウルスの頂点に立つ女性に、二人は深々と頭を下げた。




執務室を退出すると、案内された先にはセジルが待っていた。
「どうやら、議長の説得に成功したようだな。 お陰で俺の首もつながったぜ」
「それは良かった」
ニヤリと笑うセジルに、少女は肩を竦める。

「泊まるところを用意したから、お前さん達もゆっくり休むといいぞ」
よくよく彼を見ると、髭を剃ってこざっぱりした衣服に着替えていた。
そう言えば、レナとエドはあの地下室以来まともに顔も洗ってない。
「何かあったらここに連絡しろ」
連絡先と、それぞれに袋を渡される。
中には、一揃えの服と身の周りの品が入っていた。

セジルの運転する車で移動した先は、諸都市との外交で使われる要人向けの宿泊施設だった。
係の者に二人を預けると、男は仕事が残っていると言い、足早に去って行った。
案内された部屋で軽くシャワーを浴び、ベッドに倒れ込んだエドにどっと疲労が押し寄せる。
目を閉じて幾らも経たぬうちに彼は意識を手放す。
静かな部屋に聞こえるのは微かな寝息だけになった。
隣の部屋をあてがわれたレナも、同様に深い眠りに落ちていった。

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