虚空の方舟 23

─────エイオスでのクーデターの概要は大体以下の通りだ。
政務長官イゴリー・ゲルンは保安部隊の幹部たちと接触し、その支持を基盤に政権転覆を謀った。
まず部隊の一部を蜂起させて議会を占拠し、武力によって内閣を退陣に追い込んだ。
そして、臨時政府を樹立。
彼自身は首相に就任した。
前後して、ハーコヴィッツ博士暗殺の証人であるレメーニが獄中で不審死を遂げている。
だが、全ての決着がつくまでそれが公にされることは無かったのである。

このニュースは世界中を震撼させ、人々は激しくゲルンを非難した。
しかし、元首相の収賄事件が発覚するや、エイオス市民の支持は急速にゲルンの方へと傾いた。
そこには、実力や人気がありながら老獪たちの後ろを歩かされてきたゲルンへの同情がある。
それが追い風となり、ゲルンはついにエイオスの実権掌握に成功した。




* * *




「・・・やはりか」
クーデターから二日。
「デルタ部隊はフォボスの撤退をほぼ完了。 エイオス部隊は今日中に到着する模様です」
部下の補足に、リンは軽く頷く。
その無表情に苦々しさがよぎった。
やはり、デルタ大統領ヤズミルは、わざとウルスとの交渉を遅延させたのだ。
その裏にあるのは、ゲルンからの脅迫かあるいは取引か。
あの老人が犬猿の仲であるゲルンと手を結ぶとは考えにくいが、さて実際はどうであろう。
(どちらにせよ、ウルスを欺いた代償は払ってもらう)
リンは切れ長の目を細め、モニターから顔を上げる。
「デルタとの交渉は実質打ち切りだ。
 機を見てこちらも動く。 デルタにもエイオスにもそれを気取られるな」
「はっ」
「・・・閣僚全員を召集しろ、30分後には会議を始める」
一礼して去っていく男の背から、議長は再びモニターに視線を落とした。




・・・ウルス情報部は緊迫した雰囲気に包まれている。
議長直々の指示で、急遽作戦の準備に追われているのだ。
そんな中、作戦に参加できるかできないかの瀬戸際に立たされた青年が、死に物狂いでマシンの上を走っている。

「2時間26分」
ぜえぜえと肩で息をしながら、エドは床の上に寝転がった。
「・・・せいぜい、足を引っ張らないように気をつけろよ」
男が青年の顔を覗き込む。
そこにいつもと違うものを感じてエドは目を細めた。
どうやら、自分は彼にとって出来の悪くない弟子だったらしい。
立ち上がれないほど疲労困憊した青年を、差し伸べられた浅黒い腕が引っ張り起こす。

「男の友情って感じね」
ロッカールームに戻る途中それを目にしたミーアは、隣のレナに視線で示す。
今日はミーアの誘いで二人は同じ訓練に参加した。
彼女はたびたび情報部に顔を出すレナを何かと構っている。
最初は単なる好奇心だったが、少女が少しずつ自分に打ち解けることが今は嬉しい。
・・・それは、人見知りの猫を手懐ける感覚に似ている。
決して本人に言わないが。
「・・・無理してフォボスに行くことないのに・・・」
男二人から目を逸らすレナを、ミーアはちらりと見て苦笑した。
「彼なりの意地ってものがあるんでしょ」
「・・・意地?」
「そ。 男の意地よ」
意味ありげな言葉に、レナは首を傾げる。
「どういうこと?」
小鳥のようなその仕草に、女は笑みを零した。
「さあ? 後で本人に聞いてみれば?」
そう言ったきり、ころりと話題を変えてしまう。
これ以上自分から話す気は無いらしい。
引っ掛かるものを覚えつつ、少女は彼女について歩き出す。

二人が着替え終えてロッカールームを出ると、ちょうど隣の男性用の扉が開いて、中からエドが現れた。
彼を見るなり、ミーアは思い出したように言う。
「あ、ちょっと上司の所に寄ってくんだったわ。 じゃね! レナ、エド」
その挙動にわざとらしさを覚えて隣を見ると、レナは無邪気に手を振っている。
青年は何となく天井を仰いだ。

ミーアを見送ると、二人は連れ立って歩き出す。
「いよいよ明日だね」
「ええ」
感慨深げに少女は深く息をついた。
作戦の打合せはすでに終わっている。
出発まで、二人はそれぞれの部屋で待機することになっていた。

つと、少女は背の高い青年を見上げる。
「間に合って、良かったわね」
「うん」
彼は心底嬉しそうに頷く。
「・・・でも、どうして? あなたは、作戦に参加しなくても良かったのに。 死ぬかもしれないのよ」
こちらを見上げる茶色の瞳が揺れる。
「────ここまで来たら、最後まで見届けたいんだ」
微笑みながら、青年は答えた。
それは理由の一つではあったが、全てではない。
ただ、今は自分の気持ちを晒すべき時ではないことを彼は知っていた。

「・・・なるべく足を引っ張らないようにする」
「今のあなたなら、大丈夫よ」
明るい口調で付け加えると、美しい顔がようやく綻んだ。
その笑顔を青年はそっと心にしまった。




* * *




大小様々なアンテナが、珊瑚の群生のように上部を覆い尽くす。
絶海の孤島の上に建つ白亜の建築。
ここがフォボス衛星監視局である。
水平線の彼方まで何も見えないそこは、まるで世界の果てのようだった。

フォボスは、かつて 『神の雷』 を排除するためにあらゆる試みが為された場所だ。
しかし、そのどれもが効を奏さず、唯一 『神の雷』 の監視のみが継続されている。
そして、フォボスの管理権は主要都市の間を移行する。
それはどこかの都市が 『神の雷』 に対して独自に働きかけを行うことがないよう、お互いを牽制し合う意味も含まれていた。

────しかし、その均衡は今、崩れようとしている。
エイオス飛空部隊のほぼ全てが、この海域に結集していた。
飛空艇とその空母合わせて百隻余りがフォボス上空に静止する。
その中の数隻が、白亜の壁に開いた四角い穴へと吸い込まれていった。

飛空艇から次々と男たちが降りる。
技術者と、武装した護衛だ。
彼らを引き連れた初老の男が、部下の案内で第一管制室へと足を踏み入れた。
そこでは、大戦前に打ち上げられた民間衛星を利用して軍事衛星のモニタリングが行われている。
前方の巨大スクリーンには、宇宙の暗闇の中、静かに佇む軍事衛星が映っていた。
ここは地上で最も神に近い場所だ。
部下たちが作業を開始する様を見渡しながら、力でエイオス首相の座に着いた男が口を開く。
「デルタ大統領閣下に繋げ。 あの老人に礼を言わねばな」

「・・・ゲルンか」
デルタ大統領府の執務室で、老人は画面に映る男を睨んだ。
『フォボスの移譲が完了しました。 閣下のご英断、誠に恐縮に存じます』
「・・・デルタの民の命を預かる者として苦渋の決断だ」
『ご自分の利を最優先なさるあなたの言葉とは思えませんね。
 ですが、今はそういうことにしておきましょう。 では失礼』
一方的に回線が切られる。
「・・・青二才が」
忌々しく吐き捨てる。
怒りに任せて手元の書類をまき散らした後、老人の顔に暗い愉悦の表情が浮かんだ。
「・・・狂っているのはあやつか、それとも私か」

・・・先だっての飛空艇墜落事故が 『Belenus』 によるものだと知る人間は少ない。
ゲルンはクーデターの準備と並行し、このウイルスを用いてデルタを脅迫した。
ヤズミルは最初それを鼻で笑ったが、予告通り飛空艇が墜落し、回収した計器を専門家に調べさせた結果を見て老人は顔色を変えた。

彼はゲルンの要求を受け入れた。
そして、デルタはフォボス撤退とウルスとの交渉の引延しを実行したのだった。

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