虚空の方舟 29

────静かに少女に近寄ったエドは、その手からそっと銃を外した。
返り血を浴びた震える体を抱き寄せて、髪を優しく撫でる。
彼女の嗚咽が静かに響いた。

「・・・行こう。 時間がない」
時間が止まったかのような沈黙を青年が破った。
少女は涙を拭い、歩き出す。
だが、ほんの数メートル進んだだけで、青年が膝をついた。
そして、ゆっくりと床に崩れ落ちる。
「・・・エド!」
慌てて駆け寄ったレナが触れると、黒い彼の服が血でべったりと濡れていた。
それは彼自身の体から溢れ出し、更に服を濡らしてゆく。
ゲルンの凶弾が、彼の脇腹を撃ち抜いたのだ。
身軽だからと防弾スーツを着ないまま逃げてきたことが仇になった。

視界が朧げに霞む。
自分の状態を悟り、彼は泣き出しそうな少女に向かって声を絞り出す。
「・・・君だけ、逃げて」
「何言ってるのよ! エド!」
「・・・早く、行って」
耳元で彼の名を呼ぶ少女の声がひどく遠くに感じられた。
暗闇に滑り落ちるように、彼は朦朧とした意識を手放す。
(・・・生きて、そして、笑っていて)
そう、願いながら。




時計を見た少女の表情が苦しげに歪む。
助けを呼んでも、間に合いそうにない。
「・・・聞こえる?」
無線を開いて応答を待つと、すぐさまセジルの声が聞こえた。
『どうした?』
「エドが怪我をして意識不明なの。 そっちには間に合わないわ」
『何だと・・・』
「レーザー放射の五分前まで海上で待機してて。
 連絡がなければそのままこの海域を離脱して」
『何言ってんだ! おい!』
言うだけ言って無線を切る。

本当に逃げ切れるか、確信が持てない。
だが、やるしかなかった。
少女は意を決して顔を上げると、転がる銃を拾い上げた。
狙いを定めて、天窓の同じ箇所に続けざま数発を命中させる。
強化ガラスでできている筈のそれは、同じ場所に強い負荷が加わったことで、僅かな亀裂が入った。
空になったエネルギー銃を捨てると、自分の物ではない方の銃に持ち替えて、更に同じ箇所を撃つ。
次第に亀裂は全体に広がり、ピシリと音がして一気に砕け散る。
そして、反射を振りまくガラスの破片が辺りに降り注いだ。

「・・・あった!」
防弾スーツは捨ててきたが、脱出に必要になるかもしれない道具箱は持ってきていた。
青年を抱え上げて体にロープをくくりつけ、天窓に楔を打ち込む。
すぐ傍に倒れている息のない体を一瞥して、彼女はそのロープを昇り始めた。




────道具の力を借りても、意識のない体を引き上げるのは一苦労だった。
時計を見ると、放射の八分前。
見上げた空には、満天の星と月が輝いている。
作戦の前には確か、まだ月は出ていなかった。
ガラスを通さずに初めて浴びたその柔らかな光は、思ったよりもずっとしなやかな強さを秘めて頭上から降りそそぐ。

(また見れるかしら・・・今度は一緒に)
隣で目を閉ざす彼に、少女は微笑んだ。
華奢なその背に青年の体を背負い、よろめきながら建物の縁に立つ。
一つ、大きく息を吸い込んだ少女は、強く足元を蹴る。
寄り添う影は、吸い込まれるように断崖の深遠へと落ちていった。




* * *




唯一、空に残された 『神の雷』 がエネルギーの充填を開始した。
急速に圧力が高まりゆく。
長い砲台の先に燐光が揺らめくと同時に、エネルギーを放射する。

光の速度で飛来したその矢は、フォボス衛星監視局が建つ島と周辺を焼き尽くした。
海の水が大量に蒸発し、辺りは真っ白い霧に覆われる。
その霧が晴れる頃、流星の如き光がフォボス上空の夜空に閃いた。
それは長く天空を支配した神が残した、最後の存在の証。
────全ての軍事衛星が消滅する瞬間であった。
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