虚空の方舟 30

────窓から差し込む眩しい光に、意識が浮上していく。
長い夢を見ていた気分だった。
重い瞼を開けると、白い天井が目に入る。

「・・・どうして」
呟いて横を見ると、傍の椅子に座った栗色の髪の少女がベッドに寄りかかって眠っていた。
ゆっくりと、腕を伸ばす。
何気ない動作すら辛く感じるほど体は重かったが、指先に触れる髪の柔らかさが生きているという実感をもたらした。

少しの間そうしていると、彼女の体が、ピクリと動く。
身じろぎして、ゆっくりと顔を上げた少女の目が、大きく見開かれた。
「・・・エド」
「レナ。 おはよ」
「・・・・・・おはよう、じゃないわよ・・・」
呆れたような少女の顔は、見る見るうちにくしゃくしゃに変わってゆく。
「・・・良かった、エドが生きてて」
「・・・うん」
泣きじゃくる少女の髪を、そっと撫でる。




あの後、絶壁から海に飛び込んだ二人を、上空で旋回していたウルスの飛空艇が拾い上げた。
彼らは二人を艇内に収容すると、全速で海域を離脱した。
そしてレーザー放射がフォボスを破壊する直前、間一髪でその空域を脱したのだった。

飛空艇で再会したミーアとレナは、抱き合ってお互いの生還を喜んだ。
戦闘で命を落とした者もいて、全員の帰還が果たされなかったことをレナは後で知ったが、だからこそ、セジルたちは生存しているはずの二人を最後まで待ち続けたのだ。

マスクなどを装着しないまま海に飛び込んだ二人だが、外部の汚染に晒された時間が短かったため、それはさして問題ではなかった。
だが、多量の失血の上に内蔵を損傷したエドの容態は深刻だった。
ミーアが応急処置を施した後、彼らの保護のために派遣された護衛艦内で行われた緊急手術により、奇跡的に一命を取り留めたのだ。




「────君は、命の恩人だね」
思いを素直に口にすると、少女は笑って首を振る。
「最初に助けてくれたのは、あなたよ。 あの時、庇ってくれて、ありがとう」
そういえばそうだったかもしれないけど、と思ったエドは首を傾げて苦笑した。

「そういえば、エイオスの 『Belenus』 は全て回収して破棄したわ」
「・・・そうか」
リンは、その辺もうまく立ち回ったらしい。
「父の形見みたいなものだったから少し寂しいけど、何だか解放された気分だわ」
この世から消え去ったウイルスを思って、少女は嘆息する。

首長を失って混乱していたデルタとエイオスの政局は、ようやく平常を取り戻し始めている。
だが、人の営みは力強い。
二つの浮遊都市に住む人々の日常は、政情よりも早く安定しつつあった。




ひとしきり青年が眠っていた間に起こったことを話すと、少女はふと俯いた。
「ごめんね。 あなたが止めてくれたのに・・・私、人を殺した・・・」
「・・・あれは君のせいじゃないよ」
否定するエドに、レナが頭を振った。

「いいえ、私が殺したのと同じ。 私が背負っていかなくてはならないものだわ」
あの瞬間、レナは、本気でゲルンを殺すつもりでいた。
彼の死は自分の罪でもある。
「でも、今は彼のことを憎いとは思ってない」
そのことが、彼女の心を少しだけ軽くしている。
許す、という優しい行為はきっと一人ではできなかっただろう。




少女は目を伏せて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私、あなたが眠ってた間にずっと考えてたの。 今までのこと、これからのこと」
「うん」
穏やかな相槌が彼女の背中を押す。
「前、全てが終わったら私の好きなことをしたらいいって、言ってくれたわよね?」
「・・・ダンスでも、他のことでも、相手が必要なことなら何でも付き合うよ」
「えと、ありがと。 ・・・じゃなくて。 あの」
「どうしたの?」
彼女にしては珍しい、言いよどんだ様子にエドは首を傾げる。
少女はその柔らかな仕草に目を細めた。

・・・目の前に佇む優しげな青年がどれほど救いになっていたかを、この数日間で少女はまざまざと思い知らされていた。
いつも傍にいた、温かな存在を失いかけた時は、自分が死ぬ以上の恐怖を覚えた。
そして彼が助かったと知って、泣きたくなるほど嬉しかった。

しばし目を泳がせていた少女は顔を上げた。
「・・・・・・私、あなたが、好きみたい」
青年を見つめる瞳が揺れる。
「あなたと、ずっと、一緒にいたい」

あなたさえ良ければ、だけど。
一言ずつ区切るように言われた、その言葉の意味を飲み込むまで、エドは軽く一分ほど停止していた。

あまりの反応の無さに、レナは次第に肩を落としていく。
「・・・やっぱり、私ではだめかしら・・・」
その声でエドは我に返る。
「・・・・・・まさか、先に言われるなんて思わなかった」
ほっそりとした手を取って、小さく苦笑した。
彼の胸の内を、様々な思いが去来したが、とりあえず簡潔に伝える。
「僕も、君が好きだ」
囁いて、エドは白い手の甲に口付けを落とす。




・・・顔を上げると、頬を染めた少女が悪戯っぽく笑った。
「あのね。 私、来週には十八歳になるの」
嬉しそうな笑顔につられて、エドも思わず目を細める。
「じゃあ、パーティしようか。 プレゼントも買いに行こう」
「それも素敵だけど」
内緒話をするように、少女はエドの耳に唇を寄せる。
「・・・・・・ね、知ってた? ウルスでは、十八歳から結婚できるのよ」
再び呆然としたエドの頭の隅を、「自分は彼女に振り回される運命にあるのかも」 という考えがよぎる。
けれど、それすら悪くない、と思う自分は、少し変かもしれない。
「後でやっぱり嫌とか言っても、遅いからね」
年上の余裕など既に欠片もないが、何とか冗談ぽく言えた。
・・・花のような笑みを浮かべた少女に、もう一度思いを告げる。

───────「愛してる」、と。
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