虚空の方舟 GIFT

おぼつかない足取りで歩く少女に気を配りながら、エドは剥きだしの土の道を歩く。
ひんやりとした森の中、頭上の枝から小鳥のさえずりが聞こえた。 歌うようにひとしきり鳴いた後、小さな羽根をはばたかせて飛び去るその様を、少女が嬉しそうに指差した。
浮遊都市ウルス近郊の森は、世界中のどこよりも豊かな自然が残されている。
先の大戦によって荒れ果てたこの星。 だが、ここが再び緑に覆われる日はそう遠くないだろう。
月面基地に残されていたDNAサンプルと緑化技術の研究は今、目覚しい発展を遂げているのだから。

周囲よりひときわ高い木の前で、エドは足を止めた。
一抱え以上ある太い幹は天に向かって真っ直ぐに伸びている。
そこから張り出した枝は瑞々しい葉をつけ、周囲に心地よい影を落としていた。
葉の隙間から、柔らかな日の光が零れ落ちる。
少女は小鳥を探しているのか、しきりに上を見上げている。
エドはその様子に苦笑しつつ、木の手前に据えられた石の前で跪く。




結論として、彼女が月に降り立つことはなかった。
レナは、月に行く次の宇宙船が飛び立つ直前、24歳でこの世を去った。
その原因は、大戦前に大国が行った実験の一つに起因する。
「ホムンクルス」 と呼ばれた人体実験である。
遺伝子操作で能力を極限まで高めた人間を兵器として使用する、というのが研究目的だ。
世論の猛反発によって現在でも禁忌とされるその技術を、どうにかしてハーコヴィッツ博士は手に入れたらしい。
彼は試験管の受精卵にその技を施し、そうして生まれた娘の能力を最大限に引き出すための英才教育を怠らなかった。
そして、類まれなる頭脳と強靭な肉体を遺伝子操作によって得たレナは、けれどそこから生じる多大な負荷のために、生まれながらに短命であることを義務付けられていたのだ。

レナはこの事実をとうに承知していて、自分の寿命を受け入れていた。
イェン・リンの助力の元、ミーアによって思いつく限りの延命措置が取られたが、たった数年を引き伸ばせたに過ぎない。
それでも、彼女は父を恨んではいなかった。
尊敬する父であることは変わらない、と。
そう言って笑った。

最期、レナの誇らしげな笑顔が今も目に焼きついて離れない。
短いけれども自分の生を全うしたと、彼女は微笑んでいた。




彼女の名が刻まれた石を前に、呟く。
「最近、ようやく博士を許そうと思うようになったんだ」
小さく息を吐き出し、言葉を継ぐ。
「彼が君をこの世に送り出していなければ、僕たちは出会わなかった。 そうだろ?」
時折周囲を見回しながらも大人しく彼の横に佇む娘に目をやる。
「出会わなければセレンも生まれなかったし。 でも・・・」

君にもっと生きていてほしかった。

声にならない声で呼びかける。
零れ落ちた涙に、母親によく似た茶色の瞳が見開かれた。
「パパ、どしたの」
「何でもない。 ほら、セレンも何かママに話しかけたらいい」
「えーと。 ママがいきたいっていってた月。 いつか、セレンがいくからね。
 おみやげ、もってかえるから、まっててね」
「・・・ママに似ていい子だなあ、セレンは」
「やー、パパひどい」

綺麗に整えられた髪をくしゃくしゃと撫でると、セレンはのけぞってエドの手を避ける。
その仕草につい、あまり楽しくない将来を思い浮かべてしまった。
いつか、この可愛い娘が 「パパくさい」 とか 「パパこっちこないで」 とか言い出すのだろうか。
更に遠い未来、見知らぬ男に娘を掻っ攫われてしまう場面まで想像して、エドは軽くへこんだ。
けれど、と思い直す。 それすらもきっと、レナがくれた幸福の一部だ。
遺伝子操作は一代限りであり、セレンは普通の人間として生まれた。
外見は母親そっくりの娘がこれから歩む道筋に、幸多かれと心から願う。

(僕は君に会えて幸せだ)

彼女が生きていた頃から変わらぬ思いが胸を満たす。
ゆっくり立ち上がり、少し離れた場所で 「うー」 と唸っている娘に 「帰ろう」 と呼びかける。
幼い少女はぱっと顔を上げ、とてとてと歩み寄ってきた。
自分の掌に滑り込んできた小さな手の柔らかさに微笑する。

(私も)

大木を背にしたエドの耳に、彼女の囁きが聞こえた気がした。
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