蛍ノ原 1

山間の村。
初夏の雲が、山に囲まれた空を流れていく。
白い軽トラックが停まり、助手席から荷物を抱えた少女が降りた。
古い日本家屋の祖父の家に、彼女、アヤは約一年ぶりにやって来た。
中学に上がったばかりの彼女に、夏休みはまだ早い。
しかし、とある事情でひと月ほど、アヤはここに滞在することになっていた。




ずいぶん前に祖母を亡くした後も、祖父は一人ここで、細々と野菜を作り生活している。
アヤの両親が一緒に住もうと申し出ても、「都会は苦手だ」 とやんわり断っているらしい。
ここに来てから、アヤは淡々と規則正しい生活を送っている。
畑や家事を手伝う少女は、祖父の記憶にあるよりもずっと、口数が少ない。
時折、瞳をよぎる暗い影も、以前の彼女には無いものだった。

畑に行く祖父を見送ったアヤは、何とはなしに縁側でぼーっとしていた。
「何してんの?」 びくっとして、アヤは声のした方を見た。
「お前、ここんちの子じゃないだろ?」
自分と同じ年頃の少年だった。
ひょろっとした手足に、線の細い顔。
「ここはおじいちゃんち」
ふーん、と言ってから、彼はにっと笑った。
「お前、サワガニ見たことある?」 唐突に問いかける。
首を振ると、「じゃ、見に行こうぜ」 と歩き出した。
二、三歩歩いて、ついて来ないアヤを振り返った。

「行かねえの?」
「知らない人についていくなって言われてる」
目を逸らして答える。初めて会う少年についていく気にはなれなかった。
元々、ひどい人見知りなのだ。
「俺、ナオ。 お前、名前は?」
「・・・アヤ」
「ほれ、もう知らない人じゃないだろ、来いって」
彼の細い腕が、強引にアヤを引っ張って立たせた。
「そんなとこにずっと座ってると、キノコ生えてくんぞ」
言い方が可笑しくて、警戒心のかわりにほんのり好奇心が芽生えた。
ここの穏やかな生活は大好きだったが、実を言うと少しだけ、その単調さに飽きてもいた。
ためらいがちに、アヤは少年の後を追って歩き出した。




むせかえる森の匂い。
けもの道を10分ほど歩くと、小さな川に出た。
ナオは靴を脱ぎ、くるぶしほどの浅瀬に入って手招きする。
彼にならって、アヤも流れに足を浸した。
水は思ったより冷たく、そして澄んでいた。
「ほら、見てみろよ」
苔むした石をひっくり返すと、小さな蟹が、別の石の裏に素早く隠れるのが見えた。
「これ、食えるんだぜ。俺は食ったことないけど」
こんな小さな蟹、食べる部分があるのだろうか。
しかし、ちょこちょこ動く様子が可愛い。
アヤも興味津々で目についた石をひっくり返す。
住処をあばかれた二匹の蟹は、別々の方向に消えた。

しばらく、二人で石をひっくり返していたが、
「やべ、そろそろ帰らなきゃ」
そう言って、ナオが川から上がる。
元来た道を辿り、祖父の家までアヤを送って、彼は「またな」と手を振った。
軽く頷き、少年の後ろ姿が消えるのを見送る。
これが、ナオとの出会いだった。




「おじいちゃん、今日友達ができたの」
黄色い裸電球が灯る食卓。
夕飯を食べながら祖父に告げる。
「ほう」
「一緒にサワガニを見に行ったの」
アヤは、この穏やかな祖父が好きだった。
「そうか」 と言ったきり、黙々と箸を口に運んでいるが、目が優しく笑っていた。

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