蛍ノ原 3

とうとう、実家に帰る日がやってきた。
その前日。
「夏休みに戻ってくるから、そしたらまた遊ぼうね」
ナオを安心させるように、約束する。
その寂しげな顔は、何だかいつもより幼く見えて、笑ってしまった。
笑うなよ、と彼はふてくされる。
「絶対、絶対戻って来いよ。 俺、お前に見せるもの、いっぱい集めとくから。 絶対だぞ。」
「うん」
何度も振り返り、彼は坂道を下りて行った。
それを見守りながら、アヤはそっと決意した。




早朝、祖父の運転する軽トラックで駅へ向かう。
「おじいちゃん、ありがとう」
「いや。 夏休みになったらまたおいで」
祖父に、無理やり笑って手を振った。
電車を乗り継ぎ、実家近くの駅に帰りつく。
営業中のサラリーマン。大学生風の男女。
本来、学校に行かなければならない年齢のアヤに、注意を払う人などいない。
すれ違う人の誰も。

「明日から学校に行く」
ぽつりと告げると、迎えに来た母親は、一瞬驚いた顔をした。
「田舎の空気が良かったのかしらね」 と言ったきり、窓の外に目を向ける。
運転する母親をチラリと見ると、うっすら涙を浮かべていた。
(心配かけてごめんなさい) アヤは、胸の内で呟いた。




翌日、担任との相談で、まずは保健室登校から始めることになった。
それでも、担任は安堵の表情を見せた。
おそらく、アヤへの心配が半分、自分の立場が守られたという安心が半分。
それは、アヤの心を僅かに軋ませたが、彼女の決意を揺らがせはしなかった。




保健室で勉強をするようになって、しばらく経った。
ナオに手紙を二通ほど書いたが、返事はまだ来なかった。
夏休みはもうすぐ。
吐き気や震えに耐え、それが少しずつ軽くなっていくのを実感しながら、彼女は毎日学校に向かった。
しかし、不吉な知らせは前触れもなく訪れる。



「おじいちゃんから電話があったわよ。
 あなたのお友達の容体が悪いんですって。」
「・・・え」
「隣町の病院に移ったそうなの」
母親の声が、ひどく遠くに聞こえた。

部屋に入ると一気に膝の力が抜け、へたりこむ。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう・・・)
会いに行かなきゃ。
一旦そう決意すると、いてもたってもいられない。
お小遣いの余りを入れていた貯金箱を開け、お金を数える。
片道だけなら、何とかなりそうだ。
部屋からそっと出て窺うと、母親は台所でこちらに背を向けていた。
(お母さん、ごめんなさい)
そっと靴を履いて表に出ると、夕焼けの街を、駅までひた走った。

駅は帰路につく人々で混雑していた。
流れに逆らって目指す電車に飛び乗る。
人がまばらになっていく車内で、アヤは必死に涙を堪えていた。




改札を出ると、外はもう真っ暗だった。
この辺りでは大きい方の町だが、ほとんど人気がない。
駅前のコンビニだけが、白々と明りを放っている。
目を上げると、見覚えのある軽トラックが、その前に停まっていた。
「おじいちゃん」
運転席に祖父の顔を見つけ、思わず駆け寄る。
「アヤがいなくなったと連絡があって、もしかしたら、とな。
 ほら、乗りなさい」
「ナオに会いに来たの」 今まで我慢していた涙が溢れる。
「今日はもう遅い。 明日、病院に連れて行くから」
優しく頭を撫でる祖父に諭され、しぶしぶ車に乗り込む。
その夜、アヤは食事も喉を通らず、布団に入ってもなかなか寝つけなかった。




翌朝。
病室のドアを開けると、ベッドの上で眠るナオが目に飛び込む。
酸素マスクが下半分を覆うその顔は蒼白で、痛々しかった。
「初めまして。 あなたがアヤさんね」
ベッド脇の女性が、祖父に会釈した後、アヤに声をかけた。
「来てくれてありがとう。 ナオの母です」
「初めまして、楢崎アヤです」
「実は初めまして、じゃないのよ。 私、病院を抜け出すナオが心配で、時々後ろをつけていたの」
気付かなかったでしょ、といたずらっぽく笑う。
笑った時の口元の感じは、ナオにそっくりだった。
「この子、ずっと病気で、学校にもほとんど行けなかったのよ。
 それが最近、友達ができたって、すごく嬉しそうに言うの。
 本当に、本当に嬉しそうだったのよ。
 あなたから来た手紙も、何度も読み返して。
 でも、読めない漢字は、看護婦さんにこっそり聞いたりしてたわ」

彼女の話だと、ナオの調子はここしばらく安定していたという。
実家への外泊も、検討していた矢先。
急に容体が悪化し、緊急に大きな病院に移った。
検査の結果は、最悪。
「もう何日も持たないそうなの」
静かに、ナオの母親は告げた。

「手紙に電話番号が無かったから、おじいさんの家まで押しかけて、連絡していただいたの。
 最後に、唯一の友だちに会わせてあげたい、という親の我侭だったのだけど」
迷惑だったわよね、ごめんなさい、と済まなさそうに頭を下げた。
アヤは、必死で首を振った。
「いいえ・・・そんな」
その時ドアが開き、看護婦が母親を呼んだ。
「少し席を外すけど、ゆっくりしてね」
そう言いおいて、彼女はドアの向こうに消えた。
しばらくして、祖父も飲み物を買ってくる、と病室を出て行った。




窓から差しこむ日差しが白っぽい病室を照らす。
本格的な夏はすぐそこまで来ている。
しかし、その眩しい光はなぜか、アヤを息苦しい気持ちにさせた。
祈るように、ナオの顔を見つめていると、うっすら目が開かれた。
「・・・アヤ?」 泣きそうなのをぐっと堪える。
「そうだよ」
「夏休み、まだじゃん」
「ナオが心配だったの」
「そっか、ごめんな」 お前、学校頑張ってるんだろ、偉いな。
そう言って微笑んだ。
胸がキリキリと締め上げられる。音まで聞こえてきそうなほど。
「謝らなくていいから。 元気になってよ」
そうだな、と呟いて、彼は目を緩く閉じ、再び眠りに落ちて行った。




何でもない会話、しかしそれが、最後だった。
何度も病室を訪れたが、アヤの願いは届かず、三日後、彼は眠るように息を引き取った。




翌日、祖父の家で茫然自失のアヤを、ナオの母親が訪ねてきた。
片付けをしてたら出てきた、と四つ折りの紙を差し出す。
「ごめんなさい、何かのメモだと思ったから、少し読んでしまったの」
汚い字でびっくりしたわ、と言って憔悴した顔に、微かに苦笑を浮かべた。
何も言えず、それを受け取る。
彼女は、ナオのお葬式を実家で取り行うため、ここを去ると言う。
その住所を告げ、「本当にいろいろありがとう」 と言い残し、車に乗って走り去った。

一人になって、紙を開く。
子供っぽい字で綴られた、短い手紙だった。



「アヤ

おまえとあえてよかった。
アヤには、ながいみらいがある。
幸せになってくれよ。
てがみのへんじ、ださなくてごめん。

               ナオ」



「ナオ、字、間違ってるよ」 呟いて、ほんの少し、口元に笑みを浮かべる。
唯一の漢字、「幸」 の横線が一本多い。
笑みはしかし、すぐ嗚咽に変わった。
ナオは、ほとんど学校に行けなかった。
漢字をたくさん覚えることも、手紙をやりとりする相手も、なかったのだ。
その彼が、一生懸命書いてくれたであろう最後の手紙を、何度も読み返し、泣いた。




その夜、二人で行った蛍の野原に、アヤは一人で行った。
満天の星がきらめく。
ふと、視界の端で季節外れの蛍が光った。
蛍は、しばらくアヤの目の前をふわふわ漂って、葉の上にとまった。
手を伸ばし、包み込む。
手の中の光は、優しく明滅を繰り返し、そしてどこともなく飛び立った。
蛍を見送るアヤは、決心したように呟いた。
「あたし、頑張るよ」 だから、ナオ、どこかで見ててね。




実家に戻った翌日、アヤはクラスのドアの前に立っていた。
もう逃げない。ナオが、勇気をくれたから。




あの夜の光景は、今も瞼に焼きついている。
この瞬間が、永遠に続けばいいと願った。
ただ、手をつないだだけの、淡い関係だった、けれど。

私がいつかそっちに行ったら、また一緒に見ようよ。
あの、永遠の蛍の野原を。

<END>

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