序ノ章 壱

 ひと気の無い高層ビル群の一角。漆黒の双眸が地上に広がる無数の明かりに煌く。
 彼女が一歩踏み出すと、摩天楼の足元から届く光によって幽玄な美貌が闇に浮かび上がった。
 透き通るような雪白の肌に切れ長の眼差し、そして、桜色の唇。艶やかな黒髪が夜風に揺らめく。虫も殺しそうにない儚げな娘だ。だが、不似合いなことに、華奢なその背に竹の刀、竹光を負っている。
「奴はこの町に紛れこんでおるようじゃの」
 涼やかな声で、娘は背後に控える白狐を振り返った。
 優美な仕草に応じて、柔らかな繻子の紅い帯と白い袖がふわりと踊る。
『はい』
「だが、これだけの気配の中から探し出すのは一苦労じゃなあ」
『そうですね』
 白狐からの返事に、娘は花弁のような唇から溜息をついた。
「まあ良い。いずれは追い詰めて、八つ裂きにしてくれようぞ。時間はたっぷりとあるでの」
 物騒な言葉を口にした娘は、仕草だけは可愛らしく小首を傾げた。
「────ところで、私はどれほど眠っていたのじゃろうか」
『二百年は下らないでしょう』
「・・・・・・少々眠りすぎたようじゃな」
『よぉーーーく熟睡しておいででしたよ』
「仕方なかろうが」
 白狐の嫌味に娘は鼻を鳴らしたが、気を取り直して眼下の道路を走る車の列に視線を移した。
「それにしても、下を見てみるが良い、鋼の箱が走っておるぞ。長生きはしてみるものじゃ」
 感心した様子で娘がうんうんと頷くと、真っ直ぐな黒髪がさらさらと揺れる。
 放っておけば何時までも夜の街を眺めていそうな主に、白狐は苦言を呈した。
『黄泉(よみ)様、そろそろ今宵のねぐらを探しませんと』
「そうだな。では行こうか、朧(おぼろ)」
 頷くと同時に、娘の着物の裾がふわりと浮かび上がった。
 草履の足が とん と軽やかに床を蹴り、彼女はビルの屋上を囲う柵から細い体を投げ出す。白狐もそれを追うように跳躍した。
 ────次の瞬間、一陣の疾風が駆け抜けた。
 彼らの姿は一瞬にして消え、風が過ぎ去った後にはただ、小さな旋風が埃を舞い上がらせるのみであった。




 ・・・・・・夕暮れは逢魔ヶ刻だと言われ始めたのが何時の時代かは知らない。
 しかし、その言葉の持つ意味は重々、理解していた。というより、せざるを得なかった。魔を引き寄せやすい自分にとって、丑三ツ刻と並んで恐ろしい時間帯である、ということを。
 少年は、小走りに家路を急ぐ。

 二人の兄にあれほど注意を受けていたというのに、同級生たちとのバスケに夢中で時間を忘れてしまったのだ。気づけば時刻は既に五時。今までに無い失敗、というほかない。
 ・・・・・・だが、この日に限って言えば、何よりの失敗は家路を急ぐことによって周囲への注意が疎かになったという一点に尽きた。

「よお、すーみれちゃん」
「急いでどこいくの?」
 意地悪い声に足を止めた時は遅かった。
 何時の間にか、人通りの少ない四つ辻の中央で六年生数人が自分を取り囲んでいる。
 彼らは、「いじめっ子」と呼ぶにはいささか性質が悪過ぎるグループだ。
「この間のお礼、まだしてなかったよな?」
 薄笑いを浮かべた彼を見て、少年は舌打ちを抑えた。
 こいつは気の弱い下級生を狙って金をせびることで有名だ。
 先週、この男子生徒に財布を出せと凄まれた同級生を見かねて、思わず割って入り彼を殴ってしまったのだが、今この状況になってみると、見ぬ振りをした方が良かったかもしれないという後悔が胸をよぎる。
「まったくよお、スカしやがって。気にいらねーんだよ、そのツラ!」
「おっと逃げるなよ、菫ちゃん」
「はなせよ」
 引き返そうとした腕を上級生の一人に捕まれた。菫、と呼ばれた少年は反射的にそれを振り払う。
「男のくせに女みたいな名前しやがって」
「あっれー、菫ちゃん何これ」
「おい、やめろよっ!」
 別の大柄な上級生が腕を伸ばし、菫の鞄に下げられた七宝の飾りを力任せに引きちぎる。
「結構かっこいいじゃん。これ、くれよ」
「返せ!」
 奪い返そうとした菫の腕が空を切る。身長では敵わない。
 あれを諦めて家にひた走るか、どうにかして取り戻すか。
 菫が迷っていたその時だった。ぞわ、と氷のような冷たいものが背筋を這い上がる。

(・・・来た!)

「お前ら、早くにげろ!!」
 周囲を見回しながら、菫が叫ぶ。
 しかし、暴力を振るわれる側が発した警告に上級生たちは唖然とし、次いで嗤い出した。
「は? 菫ちゃん何言ってんの」
「頭おかしくなっちゃったー?」
「いいからにげろつってんだよ!!」
「うるせーよ! にげなきゃいけないのは、お前だっつーの」
 苛立った一人が少年を突き飛ばそうとして、ふと手を止めた。

ぞくり。

 ひたひた、と。
 背後から忍び寄る禍々しい気配。
 恐る恐る振り向いた少年達は凍りついた。夕闇が迫る頭上から、黒い影が彼らを見下ろす。
 人に似たその異形は────額から、角が二本。
「あ・・・あ・・・・・・」
「・・・うっわああああっ!!」
「バケモノ! バケモノだああ!!」
 子供の絶叫が木霊する中、黒い影は、ニィ、と笑った。
 口らしき穴から、真っ赤な口腔が見え隠れする。

『オレノ エモノ』

「わ、ああぁぁああっ!」
 逃げようと走り出した上級生たちを、影の背から伸びた数本の黒い腕が捉える。
 身構えていた菫にも腕が伸ばされたが、彼はとっさに屈んで避けた。同時に、素早く取り出した数枚の護符を投げる。
 ひゅ、と風を切って彼の手を離れた護符は、意思がある生き物のように影に向かって直線に飛来する。

『ガアァッ』

 護符が吸着した場所から白い煙が吹きだし、影は形を削られてゆく。

『ギ・・・ギ・・・』

 身を捩りながら、影は菫を捕らえようと執拗に腕を伸ばす。
 それをかわし、菫は更に数枚の護符を投げ放った。
(消えろ!!)
 菫の祈るような視線の先で、影は白い煙を全身から噴き上げる。
 しかし────存在を削られてなお、影はこの世に踏み留まっていた。

『ヨ ク モ』

 虚ろに穿たれた双眸が不気味に赤く輝いた。
 そして一瞬の収縮。
 直後、黒い影は何倍にも膨れ上がる。

(だめだ)

 手持ちの護符はもう無い。
 迫り来る幾つもの黒い死。避けることも叶わず、菫はぎゅっと目を閉じた。

「ほう、江戸の魑魅魍魎は大したものじゃな。────坊主、下がっておれ」
 涼やかな声に、菫は目を開いた。
 視界には、鮮やかな紅と白。
 自分と化け物の間に、紅の繻子帯を結い白い着物を纏った十六、七歳ほどの娘が白銀の刀を構え、ふわりと浮いている。その側には美しい毛並みの白狐。
 白狐と刀が纏う、波打つ水のような不思議な燐光が娘の美しい横顔を仄青く照らす。

『オマエ ハ』

「哀れな鬼よ、あの世に送ってくれようぞ」
 娘の刀によって切断された影の腕が、霧のように空中に消える。
 同時に、捕らわれていた六年生たちも地面に放り出された。
「朧!」
『はい!』
 狐の口が大きく裂け、白い火炎を吐き出す。

『ウオオォォォオオォッ』

 炎を浴びて影が絶叫した。
 同時に、娘は風のような速さで影に肉薄する。
 そして一閃。

『 オマ エ ハ ・・・ オ ニ カリ ヒ・・・』

「我が浄めを受けてたもれ」
 娘が呟いた刹那、白い手に握られた刀が眩い光を放つ。
 それに駆逐されるように、両断された影は四散した。
 やがて光は徐々に薄まり、静けさが完全に取り戻された。




「・・・すげえ・・・」
 呆気に取られていた菫が、ポツリと呟く。
 はっと我に返った菫は、呆然としている上級生たちに慌てて駆け寄った。
 顔を覗き込んで魂が抜かれていないことを確認すると、菫は掌を相手の額にかざす。
「ちょっと眠ってて」
 上級生の目がとろんとしたかと思うと、彼はくたりと崩れ落ちる。
 同様に次々と上級生たちを眠らせた菫に、「ほう」 と感心の声がかかった。
「お主、並外れた霊力を持っておるようじゃが、そのようなこともできるのか」
「眠らせる術だけは得意なんだ。これで、こいつらはぜんぶ夢だって思ってくれるはず。よし、おわり、と」
 菫は立ち上がって埃を払い、溜息をついた。
「霊力があっても使い方が分かんないとろくな目にあわない。今みたいに鬼にねらわれたりとかさ」
「確かに、お主の言う通りじゃ」
「でしょ? ほんとは術を覚えたいけど、まだ早いって言われたんだ」
 悔しそうな表情を浮かべた少年に、娘は目を細める。これほど、魔の気配に慣れた者も珍しい。彼女の存在も、彼にとってはそれほど驚きではないようだ。
「ところで、お姉さんも退魔師なの? その狐、式神でしょう」
「ほお、お主、この白狐が見えると申すか」
 頷いて肯定する少年に、「退魔師か・・・・・・まあ、そのようなものじゃ」 と娘は嫣然と微笑んだ。
 なるほど、彼にはそのような類の身内がいるのだろう、と内心で腑に落ちる。
「さて。近くにもう、鬼はおらぬ。坊主、安心して家に帰るがよいぞ」
 娘と白狐の体がふわりと宙に浮いた。
「あ、お姉さん、名前は?」
「・・・・・・黄泉(よみ)」
 玲瓏な響きを帯びた声が菫の耳朶を打つ。
 瞬間、ふっ、と空気が動いて彼らの姿は夕闇に溶けこむが如くかき消えた。

「───あ。助けてもらったお礼、言いわすれた」
 我に返ってその事実に気づいた時、彼らの気配はもう近くにはなかった。
 次兄のお手製である七宝の御護りを拾い上げ、少年は足早に立ち去る。
 上級生達は置き去りにした。それほど強い術はかけていないので、おそらく十分ほどで目覚めるだろう。
 そうして少年は何食わぬ顔で兄達に帰宅を告げたが、七宝の御護りに引きちぎられた形跡を目ざとく発見した彼らに事情を聞かれ、不注意をこっぴどく叱られる羽目に陥ったのだった。



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