翠雨ノ章 七

 落ち着いた配色で統一された洋風の室内。
 通された居間は、雑誌にでも載っていそうな雰囲気の小綺麗な空間であった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 出された紅茶の良い香りが鼻をくすぐる。
 椿はカップを手に取りつつ、口を開いた。
「今日は仕事はお休みなんですか?」
「いえ、私は自宅で仕事しているんです。絵本作家なので」
 盆を下げた男はぎこちなく微笑した。
 その顔に、二人への不安と期待が見え隠れする。
「二階がアトリエなんです。妻は今働きに出ていまして、専ら娘の面倒は私が見ているんです」
「なるほど。・・・で、お嬢さんに何か問題が?」
「それが・・・ほら泉水、こっちに来なさい」

 そこで初めて、椿は隣の部屋へ続く扉からこちらを窺う少女の存在に気づいた。
 彼女は父親に促されて、そうっと部屋に入ってくる。
「・・・こんにちは」
 髪を肩で切り揃えた五歳ほどの少女は、小さく挨拶した。
 その手足は、痛々しいほど痩せ細っている。
「ほら、この方たちに泉水のお友達のことを話してあげなさい」
「・・・いや」
「どうして」
「だって、この人たち、あの子を連れてっちゃうんでしょ? いやよ」
 父親の言葉に、彼女はほろほろと涙を零し始めた。
「落ち着きなさい、泉水」
 父親が困惑した表情で二人の方を向く。
「すみません、ちょっとこの子を子供部屋に連れて行きます」
 声を殺して泣く娘を抱き上げた男は、階段を上って二階へと消えた。

「・・・・・・お主、どう思う?」
「今の段階じゃ何とも言えない。取りあえず家の中には変な気配はなさそうだが、ただ・・・」
 階段を降りてくる足音が聞こえた。父親が戻って来たのだろう。
 椿は言葉を切って、黄泉に目配せする。
 再び居間に姿を見せた父親は、二人に向かって深い溜息を零した。
「すみません、娘は、最近ずっとあんな風なんですよ」
「いや、構いません。で、彼女が言う友達とは?」
「それが・・・」

 ─────男の話では、数ヶ月前に突然、娘は新しい友達ができた、と言ってきたらしい。
「今日も来てるの。ほら、あそこに」
 彼女はそう言って庭を指差した。しかし、そこには誰もいない。
「・・・まあ、小さい子供に時折ある、空想上の友達、だと思ったんです。
 娘は内向的な性格ですし、私の職業が職業ですから」
 椿は軽く頷いた。
 幼い子供の場合、一人で遊んでいるのに、まるで誰かと一緒にいるかのように振舞うことが稀にある。
 けれど、ほとんどは成長に従ってそういった行動は自然と取らなくなってゆくものだ。

 ゆえに、娘が庭で見えない誰かと親しげに話す姿を何度か見たが、男は余り心配はしていなかった。
 しかし変化は他にもあった。ちょっとした切欠で娘は泣くようになった。
 それも、子供にありがちな泣き方ではない。涙腺が壊れたかの如く、ひたすら涙を流し続けるのである。
「娘が言うには、彼女が泣けば泣くほど友達が元気になる、のだそうです」
 そうこうしている内に、娘は食が細くなり、目に見えて痩せていった。
 医者に見せても、状態が改善する様子は見られない。
 そんな時、彼はあの声を聞いた。

「いずみちゃん、またきたよ」

 確かに、声は庭の方から聞こえた。 しかし、窓から目を凝らして見ても、そこには誰もいない。
 しかし、娘は嬉しそうに雨が降る無人の庭へと飛び出した。・・・そう、その「友達」が来る日はいつも雨だった。




「このままでは娘が心配で仕事が手につきません。そこで、貴方の噂を思い出して一度見ていただきたいと・・・」
「分かりました。ではその庭を見せてくれませんか」
「・・・こちらです」
 椿の要望に応えて男が案内した庭は中々の広さがあった。
 大小の花々が植えられ、しっとりと雨に濡れた花弁や葉が落ち着いた佇まいを見せている。
「・・・よく手入れされた庭じゃのう」
「ありがとうございます。腕のいい庭師さんに、時々来てもらってるんですよ」
 感心した黄泉の言葉に、依頼人が微笑んだ。
 その時。

『・・・あそぼう、いずみちゃん』
 無人の庭から、子供の声が聞こえた。
「・・・これ、この声です」
 男が青褪める。異常を探して即座に目を走らせた椿は、奇妙な空間の歪みを見た。
 絹糸のような雨が降る庭の隅。 柔らかい芝草と垣根が、いびつな鏡に映る像のように歪んでいる。
「来たか」
「そのようじゃな」
「・・・だめっ! 今日は来ちゃだめだよっ」
 か細い叫び声と庭に飛び出した小さな影に、依頼人の男はさっと顔色を変えた。
 歪みに向かって駆けてゆくのは、寝かしつけたはずの少女だ。
「ちっ」
 眠りの術をかけておけば良かった、と悔やみながら、椿はガラスの引き戸を素早く開けた。
 庭に降りて歪みに駆け寄る。
 走りながら放った護符が、歪みにすうっと吸いこまれる。
『──────ギャアアァァアアッ』
 鼓膜に突き刺さる絶叫。残響と共に歪みの中から幼い少年が出現した。
『ヨ ク モ』
 少年は、ポトリ と手にしていたぼろぼろの傘を取り落とした。
 向けられた眼窩に眼球はない。ただ、虚ろな闇が広がっている。
 少年の口角が見る見る内に裂けていく。赤い口腔と鋭い犬歯が覗き、皮膚からは人間らしい艶が消えた。
 奇妙に捩れながら伸びた手足の先には、禍々しく婉曲した爪。
 額には、二本の角。
『アトスコシ、アトスコシ デ チカラガ、ミチル』
 顔色を失い、立ち竦む少女の方に、鬼が向き直った。
「ほう。人の哀しみを食う鬼か」
 けれど、何時の間にか少女と鬼の間に女が立っていた。
 女の背からすらりと抜かれた竹の刀が瞬く間に銀色の鋼へと変化する。
『オマエ・・・オニカリヒメ・・・!』
 戦慄いた鬼の周囲がどす黒い靄で覆われる。
「逃がすか」
 椿の呟きで頭上を羽ばたいていた燦が急降下する。
 大鷹の鋭い爪が鬼を引き倒した。
『!?』
 鬼が黄泉に気を取られている隙に練り上げた結界が、その醜悪な体を捕らえる。
 同時にすっと足を踏み出した黄泉が、腕を振り上げた。
「お主を浄化する」
「だめーーーー!!」
 身動きできない鬼を、小さな体が庇う。
 振り下ろされた刀が紙一重でピタリと止まった。

 はらはら、と。
 涙が雨に混じって鬼の体に落ちた。
『・・・・・・』
「だめ・・・」
「・・・・・・娘よ。そのままだと、こやつは人の哀しみを食いながらずうっとこの世を彷徨い続けるだろう。
百年も二百年も、あるいはもっと」
「・・・」
「その業から解放してやりたいのじゃ。退いてくれぬか」
「・・・いや」
 鬼に変わった少年の肩を、震える小さな手がきゅっと握った。その少年の背がピクリと動く。
 瞬間、がばっと褐色の体が動いた。
 尖った牙が少女の喉笛を噛み千切ろうとした寸前、鬼の右目を鋭い刃が貫く。
『アアアァァァッ!!!!』
「朧!」
『はい!』
「いやああああっっ!」
 白狐が少女と鬼を無理矢理引き離す。
『オノレ・・・!』
「しぶとい!」
 右目を押さえながら、鬼は黄泉の繰り出した切っ先を辛うじて避ける。
『─────ギ、アアァア!!』
 しかしその横腹に別の刃物が突き刺さった。
 椿が呪を唱えた瞬間、その楔形の刃から不可視の糸が生まれ鬼を捕縛する。
 糸と結界による浄化に、鬼は苦しげに身悶える。

「いや、やめてぇえっ!」
 普通の人間には見ることができない朧に拘束された少女の絶叫が響く。
 黄泉の目に、霊力の青い光が鬼を包むのが見えた。
 強く光を放った後、それは鬼と共に消滅する。
 後に残されたのは、薄汚れた傘。
 そして、蛍のような残光。その小さな光は、ほんの僅かな間少女の周囲をふらふらと彷徨って消えた。




「・・・・・・俺ら、今回はすっかり悪役だな」
「仕方なかろう」
 憮然とした椿のぼやきに黄泉が相槌を打った。

 彼は、泣き喚く少女に眠りの術をかけた。
 一応の説明を試みたが、少女は話を聞ける状態ではなかったのだ。
 ただ、父親が言うには泣き方が以前の感じに戻ったらしい。
 もう大丈夫だろう、と伝えると、眠る娘の顔を見ながら彼は安堵の表情を浮かべた。

「・・・で、何でお前がそんな顔してんだ」
 椿は車のキーを回しながら、隣に座る黄泉に問うた。女の白く美しい顔からは常の不遜さが薄れ、代わりに微かな弱弱しさが漂っていた。
「・・・・・・」
「いいから、言え」
 溜息をついて、椿は黄泉を促す。
「・・・あの鬼はな、不遇のまま雨の中で死んだ童の魂が核になっておった。
それがあの娘の寂しさと共鳴し、娘の哀しみを食って実体を持とうとしたのじゃ」
「・・・何故分かる。また意識が同調したのか? 前みたいに?」
「いや、生きた人間の記憶を見たわけではないからのう、前の時とは微妙に違う。
娘については、家の空気や、父親の表情、娘の様子からそう思っただけじゃ。言うて見れば勘じゃのう。
だから実際は違うかもしれぬ」
 なるほど、と椿は軽く頷いた。言われれば、娘の表情には病的なやつれとは別の翳りがあったように思う。
 と、そこで彼は首を傾げた。
「鬼の方は、どうして分かった?」
「・・・鬼を切る時、鬼が鬼にならざるを得なかった理由、その強烈な負の感情が『煌月』を通じて流れこんでくる。
常ならばその感情に引きずられないよう心を閉じているが、今回は余裕が無かったのじゃよ」
 黄泉は揺らぐ瞳を伏せた。
「・・・・・・難儀な刀を背負ってんだな」
「そうかもしれぬ」
 女は小さく笑った。その美しい横顔を見ながら、椿は口を開く。
「・・・・・・今度、美味い酒買ってやる」
「・・・大吟醸でよろしく頼む」
「少しは遠慮しろ!」
 普段のやりとりに車内の空気が緩む。
 後部座席では、素知らぬ顔をして二人のやり取りに耳をそばだてていた白狐が細い目を更に細くした。



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