狂影ノ章 八

「・・・」
「・・・」
 葛城家の玄関先。
 依頼先の雨降る庭で大立ち回りを演じ、ずぶ濡れの泥だらけで帰ってきた二人に、牡丹は呆れた声を投げかけた。
「・・・全く何をやってんですか」
 彼は奥に消えたかと思うと、すぐにタオルを手に戻ってくる。
「その泥だらけの服、洗濯に出しといてくださいね 今、温かいものを用意しますから」
「ああ、頼む」
「私は熱燗が良いぞ」
「分かりました」
 二人にタオルを押し付け、牡丹は苦笑して再び奥へと消えた。

 残された椿と黄泉は、濡れた靴を脱いで玄関に上がる。渡されたタオルで大雑把に髪の水分を拭き取りながら、次兄の青年は隣を歩く小柄な女に目をやった。
「お前から風呂入れ・・・って、着替えがないのか」
「ああ、そういえば、そうじゃな」
 女は軽く頷いた。
 彼が知る限り、彼女はこの白い和服と繻子の帯を常に身に付けている。
 存在そのものが変なので今まで疑問に思わなかったが、良く考えれば妙な話だ。
「ずっと着ててもそれ、臭くなんねーのか」
 ごく素朴な質問だが、相手は「失敬な」とでも言いたげに形の良い眉を寄せた。
「この着物は呪(まじな)いがかけてあるのじゃ。汚れや破れも、時が経てば元通りになる。
それに、そもそも私は汗などかかぬしのう。だが、ここまで汚れたら洗った方が早いかもしれんな」
「・・・何なんだ、そのドラ○もんの道具みたいな服は」
「ドラ? お主は、時々意味の分からぬ事を言うな」
 女は軽く彼を睨んだが、すぐに気を取り直して手を差し出した。
「それより、着替えを寄越すのじゃ」
「・・・ちょっと待ってろ」
 椿は自室のクローゼットから適当な服の上下を選び、風呂場の前で待っていた同居人に「ほれ」と手渡す。
「先に入らせてもらうぞ」
 澄ました顔で服を受け取ると、黄泉は脱衣所の向こうに消えた。
 それを何となく見送って、居間へと踵を返した椿の頬が引き攣った。

「・・・っ」
「貴方達は、仲がいいのか悪いのか分かりませんねえ。あ、コーヒーどうぞ」
 何時の間にか背後に立っていた長兄が、湯気の立つカップを差し出した。
 長兄の顔には、爽やかなのにどこか黒さを感じさせる微笑を浮かんでいる。
「今、自分の服を着てる彼女を想像してたでしょう? 男のロマンですもんねー」
「・・・気持ち悪りーこと言うな」
「ただいまー。あれ、椿兄、牡丹兄、何やってんの?」
「あ、お帰りなさい菫。今ですねー・・・」
「黙れ牡丹! お前はうーちゃんに人参やってこいほらほらほら!」
 帰宅した菫を、椿は居間に押しやる。
 今日も葛城家は普通に平和だった。




 ・・・その二度目の依頼から四日ほどが過ぎたうららかな午後。黄泉は一人、葛城家で留守番をしている最中であった。
 菫と椿は学校で、牡丹も外出している今、室内はシンと静まり返っている。
 牡丹が酒屋から貰ってきたカタログの頁を、白く繊細な指が繰る。その乾いた音と、彼女の隣で眠る白狐の穏やかな寝息だけが部屋に零れ落ちては消えた。
 紙をめくる毎に手を止めて、印刷された酒の瓶を黒い瞳が真剣に見つめる。その彼女が身に纏うのは、いつもの着物に紅の繻子の帯だ。

 あの夜、葛城家の家族会議で黄泉の服を買おうという案が、一応は出たのである。
 そうは言っても、黄泉にしてみればこの服だけで基本的に事足りるため、買い物をするまでもないと辞退を申し出たが、何故か牡丹が強く勧めてきた。
 曰く、「貴女が男物の服を着ていると、椿の挙動がおかしくなるので」。
 それを横で聞いていた椿が牛乳を噴いた。
 不審に思って彼に理由を問うたが、椿は目を逸らせて、「牡丹の言う通りにしとけ」としか言わない。
 良く分からないまま話を了承した黄泉は、今、海外旅行中の彼らの従妹の帰国を待っている状態だ。女性がいた方が良いだろう、との理由で、牡丹はその従妹に付き添いを頼むつもりらしい。

 さて、その後、退魔師の依頼は来ていない。
 普段は月に一、二件程度で、立て続けに依頼が来たことの方が珍しい、と椿は言っていた。
 牡丹や椿も助手としての黄泉の稼ぎに期待はしていなかったようだ。それに、少量の酒しか飲まない黄泉と油揚げしか食べない朧は同居といっても殆ど金がかからない。

 黄泉は、頁をめくっていた手をふと止めた。
 退魔師の仕事が無ければ、この生活は至って快適で平穏そのものだ。
 ────しかし、平穏に慣れれば身の内に宿る『煌月』は間違いなく錆びついていくだろう。
 それでは今まで生きてきた意味がない。鬼を狩らない自分など、何の存在意義があるというのだろう。

「朧、行くぞ」
 主の横で丸くなっていた白狐は、主の声に細い面を上げた。
『どこへです?』
「鬼狩りじゃ」
『久しぶりですね』
「ああ」
 女は桜色の唇に笑みを浮かべ、切れ長の瞳を猫のように細めた。
 その双眸の奥に、仄暗い闇が覗く。
 現世を彷徨う鬼達が最も恐れる存在────鬼狩姫。
 鬼を斬り、その負の感情を一身に浴びて、更に強く、刃のように研ぎ澄まされていく。
 『鬼食う鬼』を殺すまで、己はそのようにあるべきだと言い聞かせる。
「来い」
『はい、黄泉様』
 真っ白な裾と袖を翻し、扉を押し開ける。一歩遅れて付き従う白狐が浮かび上がり、彼女の薄い肩にふわりと舞い降りた。
 ふと椿の顔が頭を掠めた。
 彼が何かを変えてくれるかもしれない、と。
 いつの間にか心の奥底に宿る、祈りに似た何かを自覚して、黄泉は美しい唇の端を歪めた。

(・・・何を、馬鹿げたことを)
 扉の外に広がる都市の風景を眺めつつ、黄泉は自分を嗤ったのだった。



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