遠紺ノ章 十四


* * *



 移動中の車内。黒い高級車の後部座席に座る初老の男は、細かい皺の浮き出た瞼を伏せ、電話を切る。
 秘書の報告は訃報だった。懇意にしていた同僚の政治家が死んだ。原因は心臓発作だという。
 突然の同僚の死に、男は特に感慨を覚えなかった。それより、数多の秘密を共有した彼に世を去られたことが、自分にプラスになるのか、マイナスになるのか───計算を始めた男は、ふと外に視線を移した。
 高層の建物の隙間に見える、地平近くの空。それが赤く染まる時刻。
 昼と夜が入れ替わるその向こうに、不意に黒い影が掠めた。
 ・・・鳥にしては大きい。男はガラス越しに目を凝らす。
(何だ、あれは・・・)
 獣の四肢と蝙蝠のような翼を持つ異形。円を描くように紺色の上空を飛翔する「それ」は、男の視線に気づいたかのように顎を引いた。虚(うろ)の如き眼窩の奥の昏い光がこちらを見下ろす。
 ────目が、合った。
 戦慄した瞬間、異形は ニタリ と笑った。
 捕食する者と、される者。生物としての本能が、「全力で逃げろ」と警鐘を鳴らす。
「急げ! もっと車のスピードを上げろ!」
 切迫した突然の怒鳴り声に運転手は戸惑った。が、短く返事を返し言われた通りアクセルを踏んだ。
 加速した車から男は後方を振り返った。異形の影は一直線にこちらを目指して飛来する。
 震え上がる男の脳裏に、ふと自分が以前笑い飛ばした噂がよぎる。同業者の間では有名な、怨霊や化物を祓う一族の噂を───。



* * *



 住宅街の外れに建つ一軒家に、椿はいた。
 葛城家は、祓いのために使う場所を都内に幾つか所有している。ここは、その一つだった。
 深夜だが、室内に明りはない。椿は闇に慣れた目で術具の配置を確認する。
 傍らに佇む燦は、相変わらず瞑想したまま木彫の像のように動かない。
 自分の式神に呆れた視線をやってから、椿は深呼吸した。
 ・・・用意は整った。
「始めます」
 彼の低い声を合図に、六角形の陣が仄白く浮かび上がった。
 その中央には、簡素な人形が置かれている。
 依頼人の毛髪を縫いとめたその形代は、依頼人を狙う鬼をおびき寄せよるためのものだ。
 依頼人自身は、祓いが完了するまでの間は最も安全な場所、すなわち葛城の本家で匿われている。
「結界を解くぞ」
 蓮華の声に、椿は頷いた。大叔父も今は同じ白い装束を着ている。今回、彼は椿の補助としてここにいた。
 蓮華が呪を唱え終わると、キィン、という軽い耳鳴りとともに、家全体を覆う結界が解けた。
 室内の空気がふわりと動く。同時に、形代が発する依頼人の気配が外界に放たれた。
 
 鼓膜が痛くなるほどの静寂。二人は言葉を交わすこともなく、じっとその時を待つ。
 襖の隙間から射す淡い月の光が、ふっと雲で隠れた。
 空気にかすかな変化が生じ、椿は閉じていた目をすっと開く。
(────来やがった)
 無数の針のような強い敵意が皮膚を刺激する。
 微かな羽ばたきの音が、建物の外から聞こえた。何かが入口を探して飛び回っている。
 この家は至るところに札を貼ってあった。そのため、鬼は簡単に侵入することができない。
 障害なく侵入できるのは一箇所だけだ。襖を隔てた隣の部屋には、あえて札を貼っていない。そこから、獲物を罠へ誘い込む。
 椿は、大叔父と目配せを交わした。いつでも術を発動できるように身構える。
 ・・・襖のすぐ向こうの部屋から、ばさりと羽ずれの音がした。
 家屋の中に、獲物が侵入したのだ。
 刹那、竜巻のような風が吹き荒れ、部屋を隔てていた襖を吹き飛ばす。
「っ!」
 倒れてきた襖を、素早く立ち上がった椿が腕で跳ね除ける。
 それらは軽い音を立て、部屋の奥へと転がった。
 薄い障壁が取り払われ、月光の下、禍々しい異形の姿が浮かび上がる。
 大型の犬のような体躯、蝙蝠に似た翼。褐色の毛に覆われた額から生えた、捩れた角。
 ゆっくりと首をもたげた異形の眼窩の奥に、深い虚無が広がっている。そこに瞬く、憎しみに燃えた光が二人を捉えた。
『・・・違う』
 聞く者を不快にさせる、金属を擦り合わせたような唸り声が響く。擬似の餌におびき寄せられたことに気づいたのだ。
『お前たち、俺、騙した。殺す』
 怒りに満ちた咆哮。翼を広げ、異形の獣は後ろ足で立ち上がる。・・・けれどすぐに動きを止めた。
『!?』
 鬼がいる部屋の床に青白い紋様が浮かび上がった。仕掛けられた結界が発動する。
 結界から這い上がる光が、蔦のように鬼の体を羽交い絞めにしていく。
 ────捕らえた。
 そう椿が思った瞬間。
『・・・ウォオオオオオォオッ』

ギギギギギッ

(嘘だろ!)
結界が軋む。椿は思わず舌打ちした。
渾身の力を振り絞った異形は、結界を引きちぎった。術の残骸が光の粒子となって四散する。・・・相手を甘く見ていたことを、椿は認めざるを得なかった。
「燦! 行け!」
 待機していた大鷹が、主の命令で飛翔した。上方から鋭い爪が鬼を襲う。椿の後背から、蓮華が援護の札を放った。
 しかし獣の顎が燦を捕え、床に叩きつける。大鷹の悲痛な悲鳴が夜を裂く。
 太い前足で燦の体を踏みつけた鬼は、空を切って飛来した札を風ではたき落とした。
「くそっ」
 結界の再構成を試みていた椿は、呪を中断し、手元の札を投げつける。
『・・・っ、ぐあぁぁあああっ』
 再度風を起こし札を払おうとした鬼が絶叫する。その翼に大きな裂傷が生じている。
 札に紛れこんだ刃物形の術具が、薄い皮膜を切り裂いたのだ。
 鬼が苦痛で体を捩った隙に、硬い毛に覆われた喉元へ燦が食らいつく。
『この、鳥・・・!』
 燦が強く殴り飛ばされた。
 思わず体を乗り出しそうになるのを、椿は堪えた。今は、結界の構築が先だ。
「大叔父様、お願いします」
「ああ」
 椿の合図で、二人の霊力を壊れた結界に注ぎ込む。
 再び床に浮かぶ紋様。
 ・・・今度こそ手応えがあった。鬼の体躯を青い光が捉える。駄目押しに、椿は先の尖った術具を続けざまに打ち込む。
『グ・・ァッ・・・』
 倒れまいと体を支えていた異形の四肢がついに崩れ落ちた。
 憎しみと恨みが篭る両眼の光が、小さく弱くなってゆく。
 ────その視界の端に、窓枠で区切られた夜空が映った。彼が人間であった頃の、最後の記憶にある遠い紺色。
 青白い炎が異形の体を飲みこみ、唐突に弾けた。燃え尽きる花火のように、飛び散った光が消える。同様に床の紋様もすうっと薄れていく。
「燦っ」
 青褪めた椿が式神に駆け寄る。
 抱き上げて、ぐったりと力の抜けた体に手をかざし霊力を分け与えた。
 名を呼びかけると、金色の目が薄く開かれる。主の青年は、ほっと胸を撫で下ろした。
「ひどい有様だな」
 剥げた頭を撫でて、蓮華は周囲を見回した。
 襖はひしゃげ、床や壁には大きな傷が幾つもついていた。
 一応、音や振動が外に漏れぬよう術をかけているから、周辺に怪しまれることはないのだが。
 疲労を浮かべた蓮華は、兄の孫である青年に言った。
「兄貴には俺が報告しておくから、お前は燦を休ませてやれ」
「すみません」
 大鷹を抱いた椿は立ち上がり、大叔父に一礼してその場を辞した。



「・・・・・・」
 無言で帰宅した椿は、柔らかい布の上に燦を横たえ、暫くその体に力を分けていた。
 弱っていた式神の気配が落ち着くと、白い装束のままソファに身を投げ出す。
 電気を点ける気力すらない。
 闇に包まれた静けさの中で、椿は自分を見つめる気配に気づいた。
「・・・黄泉。起こしたか?」
「いや、起きておった。本家からの依頼か」
「何でお前、知って・・・」
 思わず半身を起こした椿に、黄泉はそっと歩み寄った。
「牡丹殿とお主の会話を、たまたま居間で眠っていた朧が聞いていたのじゃ。
盗み聞きするつもりはなかったようなのだが、あやつに代わって謝る。許せ」
「・・・そうか」
 牡丹は、気配に敏い朧にわざと聞かせたのかもしれない。そう思い当たって、椿は眉を寄せた。
「ひどく、疲れておるな」
 温度の低い指先が頬に触れた。
 それが心地よくて、椿は目を軽く閉じる。
「・・・・・・本家からの依頼は、厄介な相手が多いんだよ。本家に駆けこむのは大抵、どうしようもない奴らばかりだから」
「・・・・・・」
「賄賂を受け取っておいて約束を反故にする政治屋とかな。
で、行き詰った相手は大体自殺。んで鬼と同化して奴らを襲うパターンが一番、多い。
そーいうの、なんか気が滅入んだよ。ある意味、自業自得な奴らを救う俺は、一体何やってんだろうって」
 人と人の間で次々と生み出される恨み辛み。それはまるで、底なしの深い闇だ。
「────で、怖くなる。俺もいつか、その憎悪に食われてしまうんじゃないかってな」
 椿は、溜息を零して続けた。
「それでも、いずれ俺が葛城を継ぐしかない。牡丹は正当な嫡男だが霊力が弱いし、菫は俺と同じ私生児だからな」
 淡々と紡がれる本音を黙って聞いていた黄泉は、軽く目を瞠る。
「私生児?」
「牡丹は、本妻の息子。俺と菫は、愛人の息子」
「・・・・・・そうだったのか」
「ああ。親父はその不祥事で本家から絶縁された。次期当主の資格も剥奪。俺らは一応分家扱いになってるけど、本家からの風当りはかなりきつい。
そんなだし、菫には絶対やらせたくないんだ、こんな仕事」
「いろいろ、複雑なようじゃな」
「まあな」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 二人は、口を噤む。暫く間があって、黄泉は囁いた。
「お主は、本当は退魔師などになりたくないのか」
「・・・・・・」
 少女の声に、椿は沈黙で応えた。
「・・・だとしても、私はお主の術を美しいと思うぞ」
 目を伏せて、黄泉は小さく微笑した。
「お前が結界を張ったこの家は、とても清浄だ。空気が澄んでいて、居心地がいい。だから────出て行けなかった。
だが、私がいることでお主らに迷惑がかかるなら、」
「まだかけてもない迷惑を気にすんなよ」
 不機嫌な語調で遮られた少女が、驚いて瞬きする。椿は慌てて視線を逸らした。
「大体、あの大量の服どうすんだ。どうせ、出てっても置くとこないんだろ」
 椿は黄泉に背を向け、ぼすん、と乱暴にソファに寝転がった。
「勘違いすんなよ、せっかく買ってやった物を無駄にすんなって言ってるだけだからな!」
「・・・・・・しかし、あれは牡丹殿が買ってくれたのじゃろう?」
「だーーーーっ! 牡丹の言うことをいちいち真に受けんなよ。あいつ結構腹黒いからな。
奴も当面保留って言ってたんだし、お前も昨日今日聞いたことは忘れてさっさと寝ろ。俺も疲れてんだよ」
 がばっと身を起こして言うだけ言うと、再び椿は背を向ける。
「・・・分かった。お休み、椿」
 少女の気配がすっと離れていく。
 部屋に静寂が戻った。
 夜明けが近いのだろう。遠くの小鳥の声を聞きながら、椿は目を閉じた。
 いつも本家と関わった時には、心が擦り切れていくような気分になるのに────今日はそれがないのが不思議だった。黄泉と話したせいだろうか。
 しかしそこで彼の思考は途切れた。椿の意識は転がるように眠りに落ちていった。



続く
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