Remain

 よく晴れた上空を、不思議な獣が弧を描くように飛んでいた。猫より一回り小さい。兎のような長い耳に、白い短毛に覆われた四肢。背には、小柄な体に不釣り合いな、大きな翼が生えている。
 獣の眼下には、大河に面した小規模の町が広がっていた。
 上空から見下ろすと、網の目のように引かれた運河と入り組んだ道が複雑に交差している。
 せわしく空中を飛びながら、獣は、この町にいる主人の気配を探った。
 しばらくしてその所在を探り当てた彼は、鋭く降下を開始した。目指す先は、町の東側の一角であった。



 宿屋が軒を連ねる大通り。その裏に通じる、簡素な扉の一つが開いた。
 ひょい、とそこから顔を出した少年は、閑散とした路地を見回した。路地や、それと並行して流れる運河には今、人影は見当たらない。朝は物資を運びこむ船で賑わっていたが、それが一段落する午後は人通りが絶えるのだろう。
 少年は、扉から歩み出た。腰の長剣が、それを吊り下げるための留金とぶつかり、鈍い音を立てた。日向に出ると、彼の琥珀色の髪が太陽の光を弾く。
 彼は、細長く区切られた空を仰いだ。明るい緑の双眸が、一直線にこちらに向かう獣の影を捉えた。
「ラーシュ!」
 ばさばさと羽音が響く。獣は主人の片腕に着地するや、すりすりと体を摺り寄せた。
「よぉし、ちゃんと文を持ってきたな。いい子だ」
 この鳥兎という種の魔物は、少年の連絡用の使い魔だ。主人に頭を撫でられ、使い魔はキューンと満足そうに鳴いた。
 少年は、使い魔の足に結ばれた紙きれをほどき、折り畳まれたそれを開いた。期待を滲ませた視線が字を追う。しかし読み終えた時、彼の表情には落胆が浮かんでいた。
「……まだ父上には認めてもらえないのか」
 手紙を読み終えた彼は、がくりと肩を落とした。その少年の背中に、後ろから声がかかった。
「ねーねーディル。鳥兎が戻ってきたんでしょ?」
「……手紙には、何と……?」
 ディル、と呼ばれた少年は、瞬時に表情を消し、戸口から出てきた二人組に向き直る。
「サルファ、ゼス」
 路地に現れたのは、派手なドレスを着た娘と、陰気そうな若者であった。
「手紙は、次の調査についての指示だった」
 ディルが返すと、二人組のドレスを着た方、サルファが、女にしては低めの声で尋ねた。
「ふーん。今度はどこに行けって?」
「南海の沈没船調査」
「えー、なに、お宝? 財宝? 金銀ざくざく?」
 即座にサルファが弾んだ声を上げた。茶色の目がぱぁぁっと輝く。その肩越しに、沈黙していた若者が陰気に呟いた。
「……つくづく、兄上は俗物だね……」
「ちょっと、ゼス、なんですって?!」
「……その上、女装趣味の変態……」
「っく、べつに、あんたに理解してもらおうとは思わないけど? この陰険!」
 ゼスの悪態にサルファが応酬する。怯えるラーシュを後頭部に張り付かせたディルは、「また始まった」と半目を向けた。
「……女装癖のせいで、宮廷魔導師を辞めさせられたのは、どこの誰でしょう……家の恥……」
「巫女見習いのくせに、『死神』って渾名されたあんたよりマシ。神殿を追い出されたあげく、コネで拾ってもらった学府でも、怪しい自説を唱えて放り出されたんでしょ?」
「……うるさい、倒錯者」
「私の美しさに、嫉妬してんでしょ? 根暗! 性格ブス!」
 ディルは、うんざりしつつ罵倒しあう二人を見比べた。外見上全く似てないこの二人、実は、血の繋がった兄妹である。
 今年二十一歳になる兄のサルファは、黙っていれば儚げな美少女にしか見えない。腰まで伸ばした髪と女性的な顔立ちに、女物の服が実に似合っている。常日頃から肌の手入れや化粧を怠らない彼は────しかし正真正銘の男だった。
 その二つ年下の妹、ゼスは、銀灰色の髪を短く揃え、さっぱりした顔立ちをしている。普段から男に間違えられることが多い彼女は、よく見ればそれなりに整った容姿の持ち主だ。しかし、暗ーい表情を湛えているため、気づく者はほとんどいない。
 見た目の性別と本来の性別が逆で、水と油のような二人は、毎日飽きもせず喧嘩するのだった。
 だが、第三者として、ディルは思う。彼らはある意味、ものすごく仲が良いのではないか、と。兄弟の縁が薄いディルは、そんな二人が羨ましく見えることもあった。
 とはいえ、こうも連日ではさすがに閉口する。永遠に続きそうな罵り合いに、ディルは怒鳴り声をあげた。
「ああああもう、うるさいっ!! さっさと準備して成果上げるぞ! いいな!」
「……はぁい」
「……わかりましたー……」
 兄妹はぴたりと喧嘩をやめ、そそくさと木の扉から宿に戻る。一つため息をついて、ディルも彼らの後ろを追って建物の中へと入っていった。



 三人が、パカポコと馬車に揺られること数日。
 一般人が使い魔を連れていることは少ないので、ラーシュは自ら飛行しての移動である。
 そして、一行はようやく目的地に到着した。

 さて、ここは南洋に突き出た半島の小国、カリンガである。その港町の一つ、ラナに着いた三人は、さっそく沈没船の調査を始めた。町の人々にそれとなく尋ねまわり、公館の記録を辿って、半日ほどで一通り調べ終える。
 休憩がてらお茶をしながら、三人は得た情報を整理することにした。
「あの辺は、ずいぶん前から沈没船が多いらしいな。ラナの庁舎の記録では、船の螺旋推進機の故障が原因だと書かれていたが……どう思う、魔導師として」
 ディルが意見を求めると、サルファは「そうねえ」可愛く小首を傾げる。ゼスの眉が、ひく、と動いた。
「大型・中型船舶に使われる螺旋推進機は、水に含まれる魔力を応用した機械ね。すっごく頑丈に作られてるわ。そんなに頻繁に壊れるものじゃないから、変といえば変だけど……この時点では、何とも。
沈没船に関しては、特に財宝を積んだ船はなかったようね」
 すっかり沈没船への興味が失せた様子で、サルファは答える。その隣、怪しい香りがする健康茶を飲んでいたゼスは、陰気に呟いた。
「……時々、あの海域で、巨大な魚影が確認されるらしい……」
「はぁ? 怪物でもいるってわけ? そんなの、一万年くらい前の精霊の時代にとっくに滅びたって、神殿でも学府でも教えてるじゃない。あんた、今まで何勉強してきたのよ」
「……黙れよ変態……」
 バチバチッと二人の間で火花が飛び散る。ディルは内心、やれやれと思いながら割って入った。
「いちいち喧嘩するな。休憩が終わったら、港の方へ行ってみるぞ」
「ふんっ」
「……」
 兄妹は、同時にそっぽを向く。はぁ、とため息をついたディルは、頬杖をついて、夕日に染まる街並を眺めやった。その風景は、少しだけ故郷の王都に似ていた。



 ────ディルが二人を連れ、諸国を巡るようになってから、早二年。
 一般人に身をやつしているが、実は、ディルは≪大洋の王国≫の第四王子である。やんごとなき生まれの彼が、今こうして旅をしているのには、少し事情がある。

 十六歳のある日。彼は父王に呼ばれ、「お前に重要な役割を与えよう」、と告げられた。
「巡検使として、この大陸をくまなく見て回り、各国の様子を逐一報告するがよい。場合によっては、極秘の調査を任せることもあるだろう。よろしく頼んだぞ」
「父上……! そのお役目、喜んでお受けいたします。必ず、大きな成果をあげてみせましょう!」
 普段顔をあわせることすらかなわぬ父王に、直々に励まされたディルは純粋に感激した。
 しかし、ディルは知らない。この時、水面下で、熾烈な王位争いが起こっていたことも。父王が、争いの種を少しでも排除しようと画策したことも。
 そして数日後、王城の問題児二人を部下にと言いくるめられたディルは、意気揚々と大陸を巡る旅に出たのである。



 すでに、天空には星が幾つか瞬いている。
 夕日の名残をわずかに残し、空の頂は深い藍色に染まっていた。海に向かって吹く風によって、千切れ雲が太陽を追うように西に流れていく。
 停泊する船が、静かに揺れる。それらが繋がれた桟橋の先端に、三人は向かった。
 夕暮れ時の港の風景は平和そのもので、取り立てて目ぼしいものはない。桟橋の行き止まりまで来て、立ち止まったサルファが伸びをした。
「きれいな海ねえ。なんか、仕事とかどーでもよくなるわぁ」
「どうでもいいとか言うな。……ん? 何だこれ」
 三人の陰が落ちる海面に、ディルは目を凝らした。よく見ると、波間に何かがぷかぷかと浮いている。
「……貝……?」
 ゼスが屈んだ。手を伸ばし、ひょいとそれを掬い上げる。ディルは、彼女の手元を横から覗きこんだ。
「変な形だな」
 見たことのない生き物だ。巻貝をまっすぐに伸ばしたかのような、細長い円錐状の殻。そこから、触手が十本ほど伸びている。
 胴体が殻に覆われたイカかタコ、という表現がぴったりだ。大きさは、大人の掌くらいだろうか。
 貝の触手が力なく動く。どうやら、かろうじて生きているらしい。しかしあまり元気がない。
「気持ち悪い生き物ねー」
「なんか、死にかけてるみたいだな。ゼス、治してやれるか?」
「……」
 無言で頷いたゼスは、回復魔法を呟き、そっと貝を海に放す。
 とぷん、と水中に戻された貝は、しばらく波間を漂った。そして、ゆっくりと沖の方へ泳ぎ始めた。
 小さな生き物の影は、すぐに宵闇にまぎれる。ディルは、気を取り直して口を開いた。
「……じゃぁ、そろそろ宿に帰るか。港から海を見ただけでは、やはり何とも言えないな。沖に出てみないと」
「そうね。実際の事故現場は、かなり沖合だったわよね」
「……明日は、早起き……」
 明朝、現場に出るための船の手配は、昼間の内に済ませてある。三人は、特にこれといった収穫もないまま、港を後にして宿の方角に歩き出した。



 明くる日、三人を乗せて港を出発した小型船は、二時間ほどで目的の海域付近に到着した。
 件の海域は船の故障が多く、船乗りに嫌われている。彼らの頼みもあって、そこから少し離れた場所で船は停泊した。
「……魔法を、かけます……」
 ゼスは、ボソボソと呟いた。板が組まれた甲板の上に、三人は肩を寄せるように立つ。その足元に、光の輪が生じた。輪はすうっと爪先から上へ移動し、三人の頭の位置に来るとふっと消滅した。
「……これで、水の中で呼吸できます……」
「しかしこの魔法、便利だよな。水中で会話もできるし、早く動ける」
「それに、服も濡れないしね。まぁ、巫女候補だったんだから、これくらいはできないとね!」
「……」
 兄の余計な一言に、ゼスの目が不穏に光る。水中で兄にかけた魔法を解除するつもりじゃないだろうな、とディルは内心危ぶんだ。
 妹の殺意に気づかない兄は、自慢のドレスを風になびかせ、鼻歌を歌いながら船縁によじのぼった。
「じゃあ私が一番乗りね! お先にー」
 彼が海に身を躍らせると、少し遅れて、どぷん、と水音が上がった。慌てて身を乗り出す船乗りたちに、ディルは「心配ない」と声をかける。
「一、二時間くらいで戻る」
「……ここで、停泊しててください……」
 戸惑う船乗りたちの視線をよそに、ディルは運動神経のないゼスを柵の上に押し上げ、海に突き落とす。そして、自らも青い海へと飛びこんだ。



 水中に沈んだ瞬間、独特の浮遊感が体を包む。纏わりつく水泡が上へ消え去ると、視界は一面青に染まった。空気のように透明な水の中、目の前を小魚の群れが素早く泳ぎ去る。
 水を掻いて、上下を反転させる。少し離れた場所から、不恰好な泳ぎでこちらへ移動してくる二人の姿が見えた。ディルは苦笑して、海の底を指さし、自分についてくるよう身振りで示した。

 潜水を開始して、ほんの十数分。水面から届く光だけでは心許ないほど、辺りは暗い。だが、いまだ海底は見えない。
 陽光がさす海面周辺と違い、暗い青に包まれた深海は、高度な魔法でも使わぬ限り人を寄せつけない断絶した世界だ。
 サルファがそれぞれの手元に魔法の灯を点した時、ディルは内心かなり安堵した。
 ランプのような丸い灯を便りに、三人は更に下降を続ける。
 ……ふと、両側の二人が顔を顰めた気配があった。ディルもまた、薄い膜を破るような微かな抵抗に違和感を覚えた。海流とは異なる、何か。けれども、一瞬浮かんだ疑問符は霧散した。
(……沈没船だ)
 巨大な墓碑のように、水中に聳え立つ十字。注意深く周囲を見ると、同じような十字の影が数本揺らめいている。沈んだ船の大型マストだった。
 サルファが新たな光源を点し、下へと放った。灯は大型船の甲板や横腹を照らし、海底に沈む幾つかの小さな船の姿を照らして消えた。
 やはり、この海域には、船が沈む特別な理由が存在するのだろう。しかし、それをどこから探ろうか。
 思案するディルの脇腹を、ゼスがつついた。あっち、と奥に沈む一際大きな船を指さす。
 ディルは頷いて、横のサルファに「ゼスが何か見つけた」と伝える。ゼスがかけた魔法は、水中だと至近でしか声が伝わらないが、しっかり届いたようだ。
 二人はゼスの後を追って泳ぎ始めた。

 三人は、海の最底辺に降り立った。波に洗われた白い砂が、ふわりと足元で舞う。
 歩き出した彼らの横を、大型の魚がゆったりと横切る。砂に隠れていた小魚が、驚いて暗い海に逃げていった。それらの生き物たちを、ゼスは注意深く観察しているようだった。
 ディルは上を仰いだ。視界いっぱいに、威風堂々とした大型船が鎮座している。
 藻に覆われた舳先から、かろうじて船名が読み取れた。アディルダ、と書かれたその船は、記録上、最も古い沈没船に間違いない。
(……それにしては、状態が良すぎる)
 船へと足を進めながら、ディルは首を傾げた。貝類や藻がこびりついているものの、隙間から見える板や装飾は元の形状を保っており、数十年単位の劣化は見られない。
 ゼスは、船のすぐ傍まで近寄った。船倉と海底の隙間を覗きこむ。よく見ると、そこから淡い光が漏れ出ていた。その光は、サルファやゼスが魔法を行使する時に生じる光に似ていた。
 ディルは、水底に潜る途中で感じた抵抗を思い出した。
 あれはおそらく、魔法的な結界だったのだろう。この光は、その力の源。魔力が封じられた水晶か何かを、魔法の核として使用しているのだ。

 船底から漏れる光は、呼吸に似たリズムで強弱を繰り返している。その光に浮かび上がる兄妹は、珍しく難しい顔をしていた。魔法の知識が少ないディルは、顔を寄せて意見を交わす二人を見守る。
 その時────不意に首筋が粟立った。
 反射的に二人を砂地に突き飛ばし、自分も伏せる。
 同時に、今まで己の首があった場所を巨大な顎が薙ぐ。
「……何だ……?」
 信じられない巨体が、頭上を覆う。ディルは僅かに顔を上げた。
 暗い海の向こうで、襲撃者が旋回する。その全体を捉えた緑の目が、大きく見開かれた。
 細長く突き出た顎、その内側に鋭い牙がびっしり生えている。甲羅のない海亀のような胴体からは、蛇の如き長い尾が伸びていた。
 奇怪な姿をした怪物は、ありえない速度で再びこちらへ戻ってくる。三人は、飛び起きて脱兎の如く駆け出した。
 しかし怪物は彼らより遥かに水中に適応していた。怪物の口が、背後に迫った瞬間。魔法の灯が、すべて落ちた。周囲に闇が落ちると同時に、魔法による強い海流が砂埃を舞い上げる。
 ディルは流されぬよう足を踏みしめた。その彼の腕を、誰かが引っぱる。
「こっち!」
 我に返ったディルは、サルファらしき影に手を引かれて走った。三人は、隣の船の裏側に逃げこむ。
 息つく間もなく、サルファは他の二人を無理やり屈ませて囁く。
「……ゼスの推測だけど、ここは未知の生き物が集まってる場所らしいの」
「未知の……?」
「そう」
 うまく状況が飲みこめぬディルに、彼は口早に説明した。
「そしてこの海域を、大きな結界が囲ってる。なぜこんな場所があるんだか知らないけど、とにかくそうらしいの。
で、あの大きな船が偶然、結界の核の上に沈没したもんだから、核が壊れかけてる。だから一帯の魔力が乱れて、船の航行に影響が出たのね。で、本題なんだけど────」
 兄の目配せで、ゼスが言葉を引き継ぐ。
「……選択肢は三つ。一つは、我々の安全を最優先して、とっとと逃げる。二つは、あの怪物を避けながら、結界を補修する。
最後は……結界を破壊する。そしてあの怪物を調伏し、外に持ち出す。結界が弱まっている今なら、そして私とサルファなら、可能でしょう……」
 ゼスの金色の瞳が、ディルの言葉を待って彼を見つめる。ディルはわずかに躊躇した。
 こう見えて二人は、強力な魔法の使い手。そして、彼らは彼らなりに、自分を慕っている。ディルが頼めば、二人は危険を冒してその希望を叶えようとするだろう。
 怪物をてなづけて国へ持ち帰れば、一躍彼らは英雄として迎えられるはずだ。それは甘い誘惑だったが────ディルはその選択をしなかった。
「結界を修復してほしい。そうすれば、この海域は安全になるんだろう?」
「……ええ」
「……すまない」
「いいえ、あなたが気にすることではありません……」
 二人のやり取りを黙って聞いていた魔導師が、口を開いた。
「決まりね。なら、私があいつをひきつけるわ」
「俺は?」
「ディルはその辺に隠れてて」
「お前だけじゃ無理だろう。ろくに泳げないのに」
「あんたに怪我されると困るの。一応上司なんだから」
「……言い合ってる時間はありません」
 ゼスが口論を止め、サルファはしぶしぶディルの同行を認めた。

 女装の魔導師は、船影から顔を出した。怪物の姿がないことを確かめると、そこから出て、結界の核を下敷きにした船の手前に歩み出る。そして、足元に円形の魔法陣を手早く描いた。
 他の二人が円陣内に入ってから、サルファは目を閉じて長い詠唱を始めた。まずはあの大型船を核の上からどかさなければならない。
 茶色の長い髪が藻のように揺れ、かざした掌が輝きだす。海流がうねり、竜巻の如く、粉塵や砂、瓦礫を巻き上げる。
 ディルとゼスは、サルファが作り出した海流の嵐を背後から見守る。魔導師が先に描いた円陣の中は、外部の影響を受けない。
 水中に一際大きな奔流が生じ、巨大な船体が大きく傾いだ。そして、ゆっくりと横倒しに倒れる。砂埃が入道雲のように舞い上がり、軋むマストが、その半ばで真っ二つに折れた。
 ディルは埃で靄がかった周囲を見回し、息を飲む。沈没船の群れは薙ぎ倒され、本当に嵐が過ぎ去ったかのようにひどい様相だ。これが、ふざけた言動が目立つサルファの、本来の実力なのだ。
 海流がほぼおさまり、魔法陣から出たゼスは、闇の中で青く輝く核の修復を開始する。その時、薄く残る砂埃の向こうから、巨大な影が突如として現れた。
(……来た!)
 少年の全身に緊張が走る。鋭い歯が並ぶ口腔が、魔法の光で不気味に照らされた。
 彼の隣で、サルファが攻撃呪文を唱えた。
 魔導師の手を離れた氷の刃は、怪物の細長い鼻先で砕け散った。膨大な魔力を消費した後で、威力のある魔法を彼は使えない。けれど、怪物の注意を引くことには成功した。狙い通り、怪物はこちらに向かってくる。
 長剣を抜いたディルは、魔導師を庇って前に躍り出た。
 体を低くして牙を避け、鰭のような前足の根元に、剣を水平に叩き込む。
 詠唱を中断し、後方に回避したサルファが何かを叫んだ。しかし遠くて声は届かない。
 怪物に刺さった剣を、ディルは抜かずに深く押しこむ。怪物は暴れながら浮上する。刺さった剣を掴んだまま、怪物に引き摺られるようにディルは海中を上昇していった。

 自分の体に纏わりつく忌々しい獲物に、怪物は相当苛立っていた。前足を激しく掻き、ディルを振り落とそうと海中を縦横に泳ぎ回る。
 水の抵抗に逆らって剣を掴むディルの腕が、痺れてきた。
(もうだめか)
 歯を食いしばったディルがそう思った時。
 天蓋のような光の半球が、一帯を覆った。それから一呼吸おいて、淡く輝く半球の天辺に、一際明るい光が生まれる。光は、結界を形作る網の目を伝い、下へと降りてくる。まるで、無数の星が零れ落ちるような、美しい光景だった。
(ゼスが、修復を終えたんだ)
 その瞬間、ふっと気が抜けた。ディルは手を滑らせ、剣の柄を手放した。
 海中に放り出された獲物を、怪物が見逃すはずもなかった。急旋回した巨体が迫る。
(!?)
 ドッ、と鈍い音がした。鋭い牙が、ディルの腕すれすれを掠めていく。何かが、怪物の横腹に体当たりして軌道が逸れたのだ。
 怪物の体には、巨木の根のような触手が絡みついていた。その生き物は、港で見た不思議な貝とそっくりだった。ただし、大きさは馬鹿でかい。
 細長い円錐状の貝殻から、吸盤がついた触手を伸ばし、巨大な貝は怪物をがんじがらめにする。ディルは、想像を超えた光景に、ほんの数瞬我を忘れて見入った。その彼の服を、誰かが引いた。
 眉を吊り上げたサルファと、力を使い切って抜け殻状態のゼスだった。
 サルファは親指で上を示す。頷いて、ディルは二人に続いて暗い海を浮上した。

 結界を小さく破って外に出ると、ゼスがその穴を補修する。結界の下に目を凝らすと、貝が怪物を離し、悠然と泳ぎ去るのが見えた。
(貝の恩返し……?)
 ディルの脳裏を、そんな考えがよぎる。行くよ、とサルファに促され、彼は少しだけ感じた後ろ髪引かれる思いを断ち切った。
 静かに揺蕩う青い水の中を、彼は上に向かって泳ぎ始めた。



「信じられない! あんな危険なことするなんて! あんた、自分の立場が分かってんの!?」
「……そんなに怒るなよ」
 船に上がったディルは、開口一番サルファに怒鳴られた。胸元を掴まれ、がくがくと揺さぶられる。
 なんでこいつはこんなに元気なんだろう。
 ぎゃーぎゃー叫ぶサルファを見て、ディルは思う。疲れ切った体は、もうふやけて溶けそうだ。
 傍らで、ゼスは水死体のように甲板にうつぶせていた。すーすーと気持ちよさそうに寝ている。
「限界だ……」
「ちょっと、ここで寝ないでよ!」
 瞼が重い。体から力が抜けていく。サルファの怒鳴り声を子守唄に、ディルは意識を手放した。



「────本当に、何考えてるのかしら。一国の王子が他人を庇っちゃってさぁ」
「……そこが、ディルのいいところ……」
「純粋っていうか、熱血なのよね。正攻法で父親に認められたい、とか思ってるのよ。彼さえその気なら、国取りはおろか、大陸全土を手に入れるのだって、私たちがやってあげるのに」
 目を覚まさないディルを船から下ろし、荷車と人夫を雇って宿に運びこんだ兄妹は、彼の寝顔を眺める。彼を起こさぬように小声で交わされる言葉は、物騒きわまりない。
「あの怪物、ディルを追い出した王宮にけしかけちゃえばいいのに」
「……私も、同感。でも、彼はそれを望まない」
「そーなのよねぇ。王位争いのとばっちりで、巡検使とかいう変な役職に左遷されたっつーのに、薄々気づいてても文句ひとつ言わないんだもん。王国のために役に立ちたい、とかバカよね」
 肩を竦めて、サルファが言葉を続ける。
「王宮からの仕送りだってそこそこあるのに、贅沢しないし」
「……お婆さんの荷物持ちも、率先してやる……」
「泣いてる子供だって、あやそうとするしね。きっつい顔だから、余計泣かれるけど」
 ふふふ、と笑ったサルファが主の琥珀色の髪を撫でる。
 三人が元いた王宮は、二年前、彼らを体よく厄介ばらいした。後継争いに邪魔な王子と、問題児である兄妹の、三人を。
 実際のところサルファとディルは、役職を捨てて他国に仕えることも可能だ。それだけの実力があるし、故国に何の未練もない。
 しかし結局のところ、二人はこの強がりな王子と一緒にいたいのだ。
「そういえば、あの海域は結局、何だったのかしらね」
 花のような唇に指を当てて、兄は首を傾げた。
「……精霊の実験場。あるいは、滅んだ生物を、保存する場所……」
 ぼそぼそ、と妹は兄の疑問に答える。
「じゃあ、あれは精霊が試行錯誤した結果、淘汰された生物の生き残りってわけ?」
「……たぶん。あれは、現生の生き物ではない、と思う……」
「ふーん。精霊って物が捨てられないタイプだったのね。親近感を覚えちゃうわー」
 サルファは散らかった自分の部屋を思い出し、創生を司る精霊に不遜な言葉を吐く。
 と、カリカリという小さな音に、ゼスは部屋を見回した。彼女の金色の瞳が、木窓で止まる。
「……とりうさぎ……」
 手を伸ばして窓枠を押し上げると、ディルの使い魔がするりと室内に入ってきて、主人の横で丸くなる。
「あら、森で待機するのに飽きちゃったのね。……あふ、私も眠くなってきたわ」
「……私も、寝る……」
 欠伸しながら、二人は部屋を後にした。扉が閉じられ、コツコツ、と静かな足音が遠ざかる。室内には、木窓から零れる柔らかい日差しが満ちる。そして、穏やかなディルの寝息がかすかに聞こえていた。



 三人が故郷の王国に戻るのは、この三年後。ディルが王位に付き、サルファが王国の筆頭魔導師、ゼスが学府長に任じられるまでに、更に数年の月日を要した。
 そして、精霊の実験場と彼らが呼んだ太古の海は、人に知られぬまま、更に数千年の時をひっそりと渡っていくことになる。


<END>

copyright (C) 2008 * 水 中 花 * All Rights reserved.