Love Like Vanilla Beans 8

悩める眼鏡教師の躊躇

Status
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名前 : 佐倉直史  年齢 : 25歳
恋愛レベル : 28  称号 : 悩める眼鏡教師
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雲間から、太陽が顔を出した。
張りつめた空気に、春らしい温かさが混じる季節。

俺は、火の点いてない煙草をくわえ、窓の外を見下ろした。
二月の最終日である今日は、明日行われる卒業式の予行演習の日だった。
自宅学習だった三年生にとっては、最後の登校日でもある。
久しぶりに全学年が揃った校内は、いつもよりざわついて、浮かれた空気を纏っていた。
午前中に予定されていた予行演習は滞りなく終わり、三年生は他の学年より一足先に校門の向こうに散っていく。
窓から見える彼らの大半は、大きめの冊子を抱えていた。 濃紺の表紙のそれは、卒業アルバムだ。
予行演習後、各クラスで配られたものだった。

何となく、扉をちらりと見る。
先程から数人の生徒がここに訪れていたが、頭の足りない犬のように俺にまとわりついてた例の生徒は、まだ顔を出していない。
来ないなら来ないでせいせいする、と自分に言い聞かせ、窓からはなれようとした時。
パタパタと騒がしい足音が、準備室の入口でぴたっと止まった。

「センセイ! 寄書き、書いてくださーいっ!」
「えと、お願いします」

・・・例の女子生徒と、その小柄な友人だった。
俺が副担任してるクラスの、市谷と藤井だ。

「市谷、もうちょっと静かにしろ」

理由不明の安堵を表には出さないように、俺は入口に剣呑な視線を向けた。

「・・・っ」
「うん、気をつける!」

小柄な方の女子生徒がびくっと体を震わせ、背の高い友人の後ろに頭を引っ込める。
対照的に、注意された方は全く悪びれてない。 ・・・軽く殺意を覚えるのは、なぜだろう。

「それよりセンセイ、寄書き、書いて!」
「私のはこちら、です」
「分かったから、落ち着け」

脱走した時の犬ぐらいに落ち着きのない市谷をいなし、それぞれのアルバムを受け取る。
自分の席に腰かけ、ペンを取って、最初に市谷のアルバムを開いて────

「・・・誰にどれだけ頼めば、こんな風になるんだ」

・・・・・・俺は、己の眉間の皺が、次第に深く刻まれてゆくのを感じていた。
どのページも、隙間がない。 文字や絵でびっしり埋まっている。 ・・・アルバムの最後に誂えられた寄書き用のページに至っては、空恐ろしいほどの高密度だ。

「校内中まわって、知ってる人には片っ端から書いてもらったの! ほら、これは用務員のおじさん」

市谷は、メッセージの一つを指差して得意げに答えた。
・・・こいつの耳を引っ張ってやりたい衝動を、かろうじて抑える。

「これの、どこに書けばいいんだ」
「センセイのスペースはちゃんと取ってあるよ!」

細い指が、紙の隅を示した。
そこには、三センチ四方に満たない、小さな空白が残されている。

「・・・・・・」
「ね?」

約三分半後。
俺は半ば投げやりに、二人分のメッセージを書き終えた。
戻された冊子を抱えて、市谷は嬉しそうに、藤井は遠慮がちに礼を言う。
その場にいた数学教師にも書かせて、ようやく二人は (主に市谷が) 満足したらしい。

「じゃあセンセイ、明日ね!」
「失礼します」
「おう、さっさと出てけ出てけ」
「相変わらず冷たいなー」

ぶすくれた表情を見せて、市谷はくるりと体を翻す。
その後ろを、親鳥を追う雛のような藤井が一歩遅れてついていった。

「早苗、次は図書室いってみよー!」
「あ、はい・・・待ってくださいっ」

────軽やかな足音が遠ざかっていく。
「・・・やっと、静かになった」 と呟くと、その独り言を聞いた定年間近の先輩教師が、教材に埋もれた机の向こうで笑った。

「いや、明日が過ぎれば寂しくなりますよ」
「そうでしょうか」
「ええ、きっとね。 佐倉先生は、明日が教え子の初めての卒業式でしょう?」
「・・・言われて見ればそうですね。 私は、あの学年をずっと担当してましたし」

今いち実感が湧きませんが、と苦笑を返し、プリントや提出物が積まれた自分の机に視線を戻す。
そこで、小さな紙が目に留まった。

(こんなの、あったか・・・?)

手に取るとそれは、かさり、と乾いた音を立てた。
四つ折にされたその紙を開き、何気なくそこに書かれた文字を読んで────
俺は、軽く顔を顰めたのだった。



* * *



桜が咲いた。
ひとつ、季節が終わる。



長くて、短い一日の終わり。
どこか閑散とした校舎の上には、高く澄んだ空が広がる。

明るい顔で登校してきた生徒たち。
熱に浮かされるように、あちこちからはしゃいだ声が上がっていた。
そして、直前までの華やかさは、卒業式の開始と同時に一変した。
在校生の送辞、卒業生の答辞、校歌の響き。
静謐で厳粛な空気も、校庭に木霊する歓声も、今は遠い。
卒業式が終わった今、先輩教師に言われた通り、体の内は不思議な空虚さで満たされていた。

式にふさわしい日だったと、同僚の教師が口を揃えて言っていた。 本当にその通りだと思う。
晴れ晴れとした生徒の表情を見ていたら、「教師になって良かった」 と、こんな俺でも素直に思えた。

すでに陽光は西に傾いている。
会場だった体育館の片付けが終わり、式の名残は、グラウンドの片隅の紙吹雪ぐらいだ。
そのグラウンドでは、野球部のユニフォームを着た生徒が、部活の準備を始めていた。
あっという間に戻ってきた日常を不思議な気分で眺めながら、渡り廊下を歩いた。



「市谷」
「・・・センセイ。 紙、見てくれたんだね」

机に腰かけて窓の外を見ていた市谷が、こちらを向いた。

「ああ、見た」

古い校舎の端、使われていない教室。
あの日、市谷が置いていった紙には、『卒業式の後に少しだけ話したい』 というメッセージとこの場所が書かれていた。

「見なかった振りを、しようかと思った」
「でも、しなかったんだね」

柔らかく微笑した市谷の視線から、逃れるように顔を逸らす。
その視界の隅で、市谷は残像を追いかけるように目を伏せた。

「・・・最初、手がきれいだなって思ったの」
「・・・・・・」

記憶をたどるように、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「それから、ずっと目で追うようになって、話してみて、いつの間にかセンセイを大好きになってた」

市谷は目を上げて、やけに大人びた微笑を浮かべた。

「センセイが疑ってたことも、知ってるよ」
「疑う? 何をだ」
「私の気持ちを」
「・・・・・・」
「センセイは、優しいね。こんな女子高生の戯言に、なんだかんだで付き合ってくれたんだもん」
「・・・・・・そんなつもりはない」
「だとしても、センセイは優しかったよ。・・・私、すごくずるいの。 センセイの優しさに甘えたの。
 でも、嬉しかった。 好きでいられて良かった。
 ・・・えーと、つまり、何が言いたかっていうと!」

今にも泣きそうな顔で、市谷は笑った。

「片思いでも私、すごく幸せだったよ」

直後、幼さの残る顔がくしゃりと歪む。

「泣くな」
「・・・いいじゃん、泣かせてよ。 嬉し泣きだもん」

市谷は、手の甲でゴシゴシと目を擦る。
拭いきれなかった雫が赤い目元から零れて、頬を滑り落ちた。

「セカイで一番好き」

掠れた小さな声は、不可思議な引力で俺を引き寄せた。
あらゆる躊躇いが砂のように吹き飛んで、気がつくと、市谷は腕を伸ばせば届く距離にいた。

ひんやりした頬に触れた時。
かすかに甘い香りがしたのは、錯覚か現実か。

「まだ、過去形にするな」
「・・・?」
「どうやら、俺の今一番気になってる女は、お前みたいなんだ」
「は?」
「『は?』 じゃないだろう。 ・・・ぶさいくな顔だな」
「・・・・・・あの女の人は?」
「元々、付き合ってないんだ」
「ふげ・・・?」

さっきまで女の顔をしてた奴は、口を半開きにしたままポカンとしている。
豆鉄砲を食らった鳩でもこんな間抜け面にはならんだろう。
・・・何故か憎たらしくなってきて、鼻をつまむ。

「いだだだっ! あにすんのっ」
「よく聞け、これからは校外で会ってやろうつってんだよ」
「・・・まじで?」

鼻を押さえた市谷は、全く理解が追いつかないらしい。 元々丸い目をさらに丸くしている。
さすがに自分の都合で振り回しすぎか、と決まり悪くなり、口を開きかけた。

「・・・・・・そーーーは問屋が卸しませんっ!!!!!!」

────ほぼ同時に、ガラッと引戸が開き、絶叫が響きわたった。

「お前っ! さっきから黙って聞いてればうちの可愛い莉世に言いたい放題やりたい放題だなっ!
 断じて、お前なんかに莉世はやらん! 絶っっっ対にやらんぞ!
 さ、莉世、君もこんなパッとしない陰険眼鏡に関わってないで帰るよ!
 こいつ、見るからに性格悪そうじゃないか。 そんな恋心なんて焼却炉に捨ててしまいなさいっ! もっとふさわしい男を父さん見つけてあげるから! ねっ!?」

原色赤の派手な革コートを纏ったその男は、ずかずかと教室に入り込む。
そして、突然の闖入者に硬直する俺と市谷の間に割って入り、べりっと引き剥がした。

「っ、お、お父さん?! いつの間に帰国したの!」
「・・・お父さん・・・?」
「あっ、センセイ、この人うちの義理の父で・・・」
「オーマイガ。 莉世、『義理の父』 だなんて寂しいこと言わないでくれ! 血は繋がってなくとも、僕は君のリアル・ファザーさっ!」
「・・・・・・」
「あ、そこの発情眼鏡教師。 金輪際、二度と娘には関わらないでくれよ!」

ドナドナよろしく、男は市谷を引きずって部屋を出て行く。

「センセーイっ、たーすーけーてー」

廊下から市谷の悲鳴が小さくなっていく。
俺は、握った拳をふるふると震わせた。 まずは落ち着け。
数学教師だからな、俺は。 素数を数えてクールダウンだ。 ここで保護者とやりあっても、何の得も得られまい。

「・・・パッとしない陰険眼鏡、発情眼鏡だと?」

一度火の点いた怒りは、簡単には沈静化しそうになかった。
おそらく、傍から見れば俺の目には炎が燃え上がっていただろう。
────どうやらあの男は、俺を本気にさせたらしい。

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