竜になった少年。

 夜に似た曇天が空を覆っていた。
 巨人のような波が次々と生まれては砕け散り、海面で大粒の雨が弾ける。
 夏の大嵐が荒れ狂う海上で、今にも壊れそうな小さな舟が、木の葉のように波に揉まれ漂っていた。
「う、わっ……げほっ」
 その船縁にしがみつくカイは、海水を頭から被って咳きこんだ。
 彼の小舟は沖に流され、島の影すら見えなくなった。その上、櫂が波に攫われて舟を操る術はない。
 『二つの嵐が近づいているから舟を出すな』────風見守の爺さんが村に出した警告を無視したことを、彼は心の底から後悔していた。

 事の発端は、友人との些細な口論だった。
 『弱虫カイ』とからかってくる友人の鼻を明かしたい一心で、本格的な嵐はまだ先だと高をくくり、ひとり小舟に飛び乗った。そうして魚でも取ってくれば、彼らに認められると信じて疑わなかったのだ。
 しかし────嵐は予想より早くやってきた。気づくと時化(しけ)のまっただなかにいて、島から遥か遠くに流されたのである。
(……助けて。父さん、母さん、ネフィ)
 両親と妹は、今頃自分がいないことに気づいただろうか。
 カイは命がけとなった根性試しを悔やんだが、後の祭りだ。祈りを砕くように、大波が舟を高く持ち上げる。
 次の瞬間、波は飛沫と化し崩落した。
「うわぁあっ!」
 逆さに宙を浮いた船から海へ投げ出され、少年の小さな体を波が引きずりこむ。

 暗い水底に落ちていくカイは、知らない。
 荒れ狂う二つの嵐が、見えざる力に多大な影響を与えたことを。
 そして、その渦の中心に自分がいたことを。

 天空から雲を見下ろす者がいたら、驚嘆しただろう。
 一面に広がる雲海の中央に、穴のように穿たれた二つの≪嵐の目≫は、意思ある生き物のように互いに引き合い、ついに一つになった。
 重なった嵐は、数日海を荒れさせて過ぎ去った。
 海は穏やかさを取り戻し、カイの生まれた島に平穏が戻ってきたが、彼の家族は悲しみに暮れていた。
 彼らは息子を死んだものと思い、嘆き悲しんだ。
 ……けれども、実際のところ、カイは彼らの想像以上の事態に陥っていたのである。



 ────ザザ……と穏やかな波の音が聞こえる。
 頬をなでる風に誘われ、カイは薄く瞼を開けた。
 太陽が眩しい。光に馴染んでいない瞳で、瞬きを繰り返す。
(僕、生きてる……?)
 細長い砂浜と、木々の緑。どこかの浜に打ち上げられたのだと気づくまで、そう時間はかからなかった。
 カイは、「助かった」と呟こうとして失敗した。
 息が喉に貼りついて声が出ない。塩水を飲みすぎたせいかもしれない。
(……ここ、どこだろう)
 声は、喉を潤せば治るだろう。それより、ここの住人に助けを求めるのが先だ。
 節々が痛む体を起こそうとした彼は、ふと自分の腕を目にして────ぎょっとした。

 ナニカガオカシイ。

 腕は黒く固い皮膚に覆われ、短い指から鋭い爪が生えている。変な方向に曲がった両腕は、春先に家の周りをうろつくトカゲを連想させた。
 カイは首だけを動かして首から下を見た。
「ヴィィィィイイィアァアア!!!」
 身の毛がよだつ咆哮は自分のものらしい。
 自分の体が竜になっている。
(どういうこと……?)
 意識が理解を拒む。そのまま思考停止し、十分。……更に二十分が経った頃。
 かさかさ、と葉擦れに似た音がして、カイは我に返った。
 岩や草の影に潜む何かが、こちらを窺っている。
 気配は無数にあった。ぐりんぐりんと長い首を動かして周囲を探る。
 すると、小さな生き物は、「ひっ」と叫んで頭を引っ込めた。視界に捉えたその見えた姿は、どうも人間っぽい。……ただし、やたら小さい。米粒程度の大きさだ。

 小人の国に来たのかもしれない、とカイは真剣に考えた。
 冷静になろうと、自分と小人の大きさを比較してみる。
 小人が、今の自分の体長と同じ距離を歩いたら……。一時間以上かかるかもしれない。

 はたして、彼らと意思疎通できるのか。カイは途方に暮れた。
 だが、それは長く続かなかった。「ぴゃーっ!」と叫び声が聞こえ、彼はびくっと体を竦めた。見ると、声がした方から小人たちがワラワラ現れ、こちらに向かってくる。
 彼らは弓や剣、槍を手にしている。自分を攻撃するつもりであるのは明白だった。
 必死に体を起こそうとするが上手くいかない。カイが砂浜を転がる間、小人たちは雄叫びを上げ迫りくる。カイは目を固く瞑って身構えた。

かしょんかしょん
じびびびびっ

 ……しかし。
 あざみの棘のような兵士の弓矢も、ちまっとした魔法使いの小さな雷も、竜の鋼鉄の皮が軽ーく弾いた。
 今のカイには、彼らの攻撃は、足元ではねた水溜りの飛沫も同然であった。
(これならきっと負けない)
 四肢を踏ん張って立ち上がり、筋張った背中に気合を入れる。巨大な漆黒の翼が天空をぐわっと覆い尽くした。
「ディィヤァアアアアッ!!!」
 とりあえず叫ぶ。全力で叫ぶ。
 ぴゃーっと悲鳴を上げて、小人は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
 そして、カイの周囲に再び静けさが戻った。彼はほっとした。だが。
(ここどこ……)
 疑問に答える者はない。カイは再び途方に暮れた。これが夢であってほしいと願いながら。



* * *



 雪を頂く山嶺にもたれてまどろみながら、カイは竜になった初日のことを思い出していた。
 あれから八十年余。いろんなことがあった。

 最初、小人だと勘違いした彼らは、正真正銘、普通の人間だったらしい。
 おもちゃのような城や町を見て、カイはそう断定せざるをえなかった。
 彼らが小人なのではない。自分が山レベルの大きさになってしまったのだ。
 第一印象が最悪だったためか、その後、人間達との意思疎通は思うようにいかなかった。彼らは畏怖をもってカイを退け、拒否した。
 彼が元人間などとは夢にも思わないのだろう。

 カイは割と諦めのよい性格だった。それが『弱虫カイ』と呼ばれた所以だったが、本人は気づいていない。
 人々を怖がらせるのが申し訳なく、早々に険しい山奥に引っこんだ。
 頑丈な体だ。万年雪も切り立った岩も、竜の体なら何てことはない。
 竜になって以来、なぜか空腹を感じることもない。
 喉の渇きは稀にあったが、山奥にある湖で喉を潤せばいい。冬は、山の頂に積もる氷を食べた。
 ごくたまに、猟師に遭遇することがあったが、その時は、微動だにせず山の一部である振りをした。息を殺してじっとしていたら、意外と気づかれない。
 そんな感じで、彼は人気のない山中で、いたって平穏無事に過ごしていた。

 しかし、静かな生活を送るカイにも、一つだけ悩みがある。
 五年に一度差し出される生贄の娘だ。

(あー……今年は生贄の年かぁ)
 御輿を担ぎ、山を訪れた旅団を陰からそっと覗き見る。
 カイは、心の中でため息をついた。
 彼にとって、生贄の娘は、人と接する貴重な機会である。しかし、生贄の娘達は怯えていてそれどころじゃない。「ここはどこ」という基本的なことを聞くことさえままならない。(といっても、今のカイは人語を話せないので、会話など成り立たないのだが。)
 そんなわけで、恐怖に震える彼女達を、彼は毎度、そっと人里に戻していた。

 山と一体化したカイが見守る中、今年の生贄を乗せた御輿が地面に下ろされた。
 えっさほいさとそれを担いできた男たちは、少し離れた場所で、仰々しく地面に膝をつく。
 柔らかそうな布の簾がさっと上がり、御輿の中から、白い着物を纏った少女が歩み出た。すると、彼女を連れてきた男達は、再び御輿を担ぎ、一目散に山道を下りていった。五年に一度繰り返される光景だ。男たちの素早い立ち去りように、カイはいつも感心してしまう。
 崖の一部に切り開かれた広場で、ぽつんと残された少女は、気丈に顔を上げた。
 年齢は、十四、五歳だろう。幼さの抜けきらない顔は、花の蕾のように美しかった。
 広場の隅にしつらえられた、簡素な石の祭壇を見据え、少女はしっかりした足どりで苔の蒸した階段を上る。
 美しい刺繍に縁どられた裾の長い着物が、彼女の歩みに合わせて揺れた。黒髪にあしらった宝玉の簪が、しゃらりと鳴る。
 祭壇に立った娘は、敵意をみなぎらせ、カイがいる山の方に向かって叫んだ。
「竜よ、出てこい!」
 意志の光を宿した、少女の青の瞳を見た瞬間、カイはそこから視線を逸らせなくなった。深い海のような彼女の眼差しは、彼の記憶にある何よりも美しかった。
「怖ろしい化け物め、私を食いたいなら食うがいい!」
 山に木霊する少女の声に、カイはびくっとした。が、ちょっと嬉しくもあった。
 竜になって以来、彼に話しかける者は皆無。当然、誰とも目を合わせたことがない。
 山陰から彼女の様子をうかがう。動悸が早くなった。
 これ以上躊躇していると、彼女は更に怒ってしまうかもしれない。
 そう思い、そっと顔を出した。
(こんにちは! いい天気ですね)
 そう言いたかったが、あいにく竜の唸り声は人間に通じない。仕方なく会釈したカイの鼻先で、小さな炎が爆発した。
「ただで食われてやるものか!」
(……)
 どうやら、彼女は魔法が使えるらしい。カイの周囲で、ポンッポンッと花火のような炎が爆ぜる。
 けれど全く痛みはない。
 カイは楽しくなって、目を細めて炎に見入った。
 そんな竜を指差し、ぜえぜえと肩で息をする少女が叫ぶ。
「お前は、私をいたぶって殺す気か!」
 一度首を傾げて、カイは首を振った。
「じゃあ、一飲みにするつもりだろう」
 カイはもう一度首を振った。
 そこで、彼女はあることに気づいた。
「お前────まさか、人の言葉が分かるのか?」
 娘がすっぽり入って余りある、巨大な金色の瞳がぱああっと輝く。……この質問を八十年待ってました!!
 はやる気持ちを抑え、カイは慎重に首を縦に振った。
「何と」
 青い瞳が、限界まで見開かれた。
 すごい驚きようだ。眼球がこぼれ落ちないか、カイは心配になる。
「……お前は、もしかして、私を殺すつもりはない?」
 慎重に紡がれた質問に、カイは首肯する。それを見て、「生贄の娘が生きて戻ったという噂は、本当なのか……まさか」と彼女は呆然と呟いた。
 暫しの沈黙があって、少女は再び顔を上げた。
「……心話の魔法をかけてもかまわないだろうか。言語の違う者どうしが、精神で会話する魔法だ」
(喜んで!!)
 金色の目が再び輝き、何度も首を縦に振る。
「では、かけるぞ」
 娘は目を閉じて呪文を唱える。すると、小さな光の粒がカイの額にきらめいた。
 途端、頭の内側から外に向かって、ピンと糸が張るような、不思議な感触があった。
「これで、会話が……」
『……あーーリーーがーーとおおおおお!!!!!!!!!』
「〜っ……!」
 積年の鬱屈から解放されたカイの心の叫びは、危うく少女の脳を破壊するところだった。危ない危ない。
 頭をおさえ、「もうちょっと静かに話せ……」と彼女は呻く。
『……ごめんなさい……』
 しゅん、と竜は頭を垂れる。
『久しぶりに話せる人がいて嬉しかったんだ』
「……」
『怒ってない?』
 カイは上目遣いに少女をうかがう。竜の殊勝な態度に、少女の態度は軟化したようであった。
「怒ったわけではない」
『本当? 良かったー……実は、あなたに聞きたいことがたくさんあるんだ。ええと、君の名前は?』
「リリエだ」
『僕は、カイ』
 美少女の名前ゲットである。密かな喜びを隠し、カイはリリエに長年溜めこんだ疑問をぶつけたのだった。




「で、お前は嵐に見舞われて、なぜか竜になっていたと」
 積もり積もった疑問が解消した後は、いつの間にか竜の身の上相談になっていた。
 カイの話に真剣に耳を傾けるリリエは、気は強いが意外と優しい娘なのかもしれない。
『そうなんだよねー。まあ、竜の生活も悪くないんだけどね。お腹すかないし』
「では、生贄を食べてはいないのだな?」
『食べるわけないじゃん。あ、でも前々回の子はかわいそうなことしちゃったな。
体が元々弱かったのか、すごく衰弱してて、町に戻す前に死んじゃったんだよね。湖のそばに埋めてあげたんだけど、家族のところに帰してあげたかったなぁ』
 うなだれる彼を、リリエは何とも言えない表情で見やった。
「お前の身の上は分かった。で、お前はどうしたいのだ。竜のままでかまわないのか?」
『まさか』
 垂直にすると顔が雲に隠れるほど長い首を、カイは横に振る。
『もし、元に戻る方法を知ってたら、ぜひ教えてほしいんだ』
「ふむ」
 リリエは顎に手を当てた。
 カイは漁師の息子である。あまり歴史に詳しくない。
 一方、リリエは王によって直々に生贄に選出されるほどの、高貴な家の出身。魔法学を含め、高い教育を受けてきた。
 歴史の授業で教わったことを、リリエは記憶の奥から手繰り寄せる。
 竜のように、巨大な生き物が出現した例は、これまでに数度ある。彼らは突然現れ、大半は永遠ともいえる長い寿命を全うした。そして────ごく少数は、ある日忽然と姿を消した。
 ここで彼女は、自分の知識とカイの話を照らし合わせて、一つの仮説を立てた。
「方法はあるかもしれん」
『ほんと!?』
 「ああ」と頷いて、リリエは目を細めた。彼女は、魔力を操る鍛錬を受けている。落ち着いて竜を観察すると、途方もない大きさの魔力が彼に宿っていることが彼女には感じ取れた。
「お前の持つ見えざる力、つまり魔力の量は、尋常ではない。それがお前を異形たらしめているのであろう。
つまり、魔力をすべて解放してやれば、人間に戻れると思う」
『それってどうやれば……』
「お前は、竜になった日、二つの嵐が重なる場所にいた、と言っていたな」
『うん』
 青い瞳にいたずらっぽい光を浮かべて、美しい少女はにやりと笑った。
「それなら、お前の力で二つ分の嵐を起こせばよいのではないだろうか」



 「じゃあ海の上がいいよね」と、満場一致で移動先は決まった。
 カイが住む山で嵐を起こせば、山崩れが起こるかもしれず、平地では人を巻きこむ恐れがある。
 というわけで、ひさびさにカイは羽を開いた。巨大な羽をばっさばっさはばたかせて、空を飛ぶ。
 リリエは、象の背に乗る蟻の気分を味わっていた。それくらいカイは大きい。島が一つ飛ぶのと、そう変わりない。
 彼女の指示に従い、カイが悠々と空を進む。すると、海に突き出た二つの無人島が彼の視界に現れた。

 カイは、東側の島に舞い降りた。自分の背から掌にリリエを移動させる。岩盤のような掌に立つ少女と、巨大な黒い竜はやや緊張の面持ちで向かい合った。
「では、やってみよう」
『うん』
「私が魔法式を作り、お前の魔力を流しこむ。力の流れは私が補助するから、お前は心を平静に保っていろ」
『わかった』
 呪文を唱え、リリエは、風を起こす魔法式を組み上げる。彼女の前に、淡い光を放つ魔法陣が形を成していった。
 それが完成すると、リリエは大木のようなカイの指に触れ、膨大な魔力を引き寄せた。
 魔法の効果は、数分で現れた。
 湧きだした暗雲が頭上で渦を巻き、光を遮る。すぐに小雨が降りだし、ひゅうっと強い風が吹き抜けた。
 徐々に強まる風雨から庇うように、カイはリリエを乗せた手を胸に引き寄せた。そして、巨大な翼を傘のように広げる。
 呪文を唱えながら、少女は、竜を見上げた。自分を見守る金色の瞳は、どこまでも穏やかだった。
(このような者が、人を殺すわけがない)
 リリエは微笑すると、目を閉じて更に集中する。

「……もう一つの島に移ろう」
 カイの魔力を半分ほど消費して、嵐は十分に成長した。
 突風は唸りを上げ、僅かに生える草木の葉を容赦なく千切り、暗い空へと持ち去る。押し寄せる波濤が、激しく岸にぶつかって砕けた。島を飲みこむ勢いで海がうねる。
 その吹きすさぶ風の中を、羽ばたき一つでカイは西側の島に移動した。
 そこで、リリエは同じ作業を繰り返す。乱れた黒髪や、服の裾が汚れるのも構わず、一心に魔法を紡いだ。
(もう少しだ)
 強力な魔力に晒され、リリエも限界に近い。が、気力をふりしぼってカイの魔力を削ぐ。カイは心配そうに彼女を見守った。
「……終わりだ」
 カイの体に内在する魔力の、最後の一滴を吸いだして少女は呟いた。同時に、嵐の激しさは最高潮に達した。一方、カイの翼が守る空間は凪いだ海のように静かだ。
 ふっと、カイの周囲で荒れ狂う強風がやんだ。唐突に、雲間から太陽の光が降りそそぐ。
 カイは、掌で包みこむようにしていた小さな少女を、そっと地上に下ろし、翼をたたんだ。
 灰色の雨雲の向こう、ぽっかりと浮かんだ青い天空を仰ぐ。二人の真上で、二つの≪嵐の目≫が徐々に近づき────やがて一つに融けあった。

 瞬間、リリエの横で、ポン、と軽い音が鳴った。紙風船がつぶれたような、気の抜けた音だ。
 山に見まがうほどの巨大な影が、すっと消える。代わりに、ほっそりした茶色の髪の少年が彼女の視界に飛びこんだ。
「…………戻ったーーーーーーっ! 戻ったよ! ありがとうリリエ!」
 見知らぬ少年に抱きしめられたリリエは、彼もろともバランスを崩して、草の上にドサッと転がる。
「あ、ごめ……ごめんっ」
 少年は、リリエの上から慌てて飛びのいた。うろたえる彼の茶色の瞳に、見覚えのある光を見つけて、少女は笑った。
「……カイ?」
「うん」
「良かった、成功したんだな」
「うん。ありがとう。ありがとう、リリエ」
 二人は草の上に倒れたまま、声を上げて笑った。
 ひとしきり笑ったところで、再び雲が天を覆い、強風が吹き始めた。≪嵐の目≫が過ぎ去ったのだ。
「カイ、あそこに走るぞ」
「うん!」
 二人は、慌てて近くの岩陰に走りこむ。
 全身びしょぬれのカイは、隣で服の裾を絞るリリエに、ふと疑問に思ったことを訪ねた。
「あの、それでさ、リリエ。確認してなかったけど、僕達どうやってこの島から出るの?」
「…………」
 リリエの顔がこわばる。もしかしなくても、彼女は何も考えてなかったらしい。



* * *



 リリエの体にわずかに残る魔力で作った小鳥が、彼女の実家に届かなかったら。
 おそらく、二人は無人島で死んでいただろう。
 しかし、幸運なことに、小さな使者はリリエのメッセージを、彼女の両親のもとへ無事運んでくれたらしい。
 リリエの両親が出した救助の船が、島にやってきたのは翌日のことである。彼らに救われ、二人は今、大陸へ戻る途中であった。

 水夫が行き来する甲板で、二人は並んで海を眺めていた。
 カイの視線の先で、ゆるやかな水面が陽光を散らし輝く。昨日まで荒れ狂っていたとは思えないほど、穏やかだ。
 ふと会話が途切れた折、隣のリリエに、カイは神妙に切り出した。
「リリエ、お願いがあるんだ」
「何だ」
「僕のいた島に寄ってもらえないかな」
「……」
 彼が住んでいた島は、船の帰路の途中にある。寄り道自体はさほど問題ない。けれど、リリエは難しい表情を浮かべた。
「言いにくいことだが……お前の家族は、きっと生きていないぞ」
「うん、分かってる。お墓だけでも見ておきたいから」
「そうか。では、私から船長に話してこよう」
 リリエは頷くと、ぽん、とカイの肩を叩き、その場を離れた。航路の微妙な変更を、船長に伝えるために。
「ありがとう」
 彼女の真っ直ぐ伸びた背中に、カイは微笑する。心地よい海風を柔らかい肌で受け止めて、彼は軽く目を閉じた。



 約八十年ぶりの島。
 見覚えのある地形だが、建物は記憶にないものばかりだった。
 カイの後ろを少し離れて、リリエと護衛の者がついていく。
 カイは、おぼろげな記憶を頼りに歩いた。船を降りて数十分。途中何度も立ち止まりながら、少年はついに、かつて自分が住んでいた場所を見つけた。
「……ここだ」
 建てかえらたらしい家は、それでも少し古びていた。
 緊張の面持ちで、木の扉をとんとんと叩く。
「……はいよーぅ」
 ギィと軋みながら扉が開き、隙間から男が顔を出した。三十半ばくらいの男だ。漁師らしく、日によく焼けている。見覚えのない少年の来訪に、男は不思議そうな顔をした。
「お前さん、誰だい?」
「僕は、カイ。ネフィに会いたいんです」
「ネフィ婆さんのことかい? 婆さんなら、七年前に死んだよ」
 そう答えた彼の顔に、懐かしい妹の面影が重なる。丸っこい目元が似てる、とカイは思った。
「じゃあ、墓参りしたいんです。お墓の場所を教えてください」
「婆さんの墓は、西の岬んとこさ。あんた、婆さんの知り合いか?」
「そうです。教えてくれてありがとう」
 にこっと笑い、カイは踵を返す。
 待っていたリリエの前に来ると、彼は「今から墓参りするよ」と力なく笑った。リリエがそれに頷く。
 そして、二人は無言で岬に向かって歩き出した。

「……父さん、母さん、ネフィ。ただいま」
 島の墓地には、二人以外誰もいない。リリエの護衛には墓地の外で待ってもらった。
 凪いだ海と空を、夕日が赤く染める。鮮やかなのに、カイの目にはどこか寂しい色に映った。
「急にいなくなって、ごめんな」
 家族と自分の名が刻まれた石に、小さく笑いかける。
「僕、ほんとは死んでなかったんだ。むだに葬式出させちゃってごめん」
 笑みは続かない。少年の肩が小刻みに震えだす。
「ばかな息子でごめん。ごめんよ」
「カイ……」
「う、ぁあぁっ」
 涙が溢れて止まらなかった。しゃくりあげる背中を、温かい手が何度もそっと撫でた。
 胸を引き裂く悲しみがおさまった頃。ぐしゃぐしゃになった顔を俯けたまま、カイは隣で目を赤くしている少女に「ありがとう」と呟いた。



「気持ちの整理は済んだか?」
「うん」
 翌日。再び出港した船の甲板で、腫れた目をした二人は、今日も海を眺めている。
 もう、カイの中に島への心残りはない。
「それで……僕はあなたの家で何をしたらいいのかな」
 カイは暫くの間、リリエの家に身を寄せる予定だ。だが、それ以外は何も決まっていない。
「そうだな。竜になった人間の話を聞きたい奴は、案外たくさんいるんじゃないか? そいつらに話をするのも立派な仕事になるかもしれんぞ。世の中には学者という酔狂な連中がいるからな」
 茶目っ気のある表情を浮かべた少女は、花のように笑って続けた。
「だが、せっかく人間に戻ったのだから、まずは人間であることを楽しめばいいのではないか」
 カイは瞬きして、「そっか……そうだね」と眩しそうに茶色の瞳を細める。
 自分のと変わらない高さにある、意思の光を帯びた青い瞳が微笑んだ。
 カイは(……まずは、身長を伸ばそう)と心に誓う。
「あのさ、リリエ。実は僕、竜になって一つだけ良かったって思うことがあるんだ」
「? 何だ?」
「秘密」
 それを聞いて、リリエの眉がくいっと上げる。
「お前、恩人にそのような態度を取るのか」
「えっいや、これは、いつか話すよ」
「ふん、恩知らずめ。私は部屋に戻る。ついてくるなよ」
「待ってリリエ、怒らないで」
 足音荒く歩き出した少女を、情けない顔をしたカイが慌てて追う。

 彼が秘密をあらいざらい吐かされ、リリエがちょっぴり満足そうな顔をしたのは、この十分後のことである。


<END>

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