Souls Flow

三章 塔ノ姫君 16

胃の辺りが気持ち悪かった。 鼻腔を刺激する血の匂いによってこみ上げる吐き気を、アンリは奥歯を噛んで堪えた。

「・・・平気か」

青白い顔色を案じて伸ばされた腕に、アンリは反射的に身を引いてしまった。
その視界で、夜空の色を湛えた瞳が一瞬哀しげに歪んだような気がした。

「あ・・・ごめん。 その、助けてくれてありがとう、ミロ」

慌てて口にした言葉が空しく響く。 腕を下ろしたミロは、アンリに無言で答えた。
・・・二人の周囲では、戦闘は既に終結を迎えていた。
アンリとミロを守るはずだった兵士達は、後から来た一団によってほとんどが縄で縛り上げられ、或いは負傷して倒れている。
圧倒的な強さで瞬く間に彼らを押さえた兵士達は、撤収の準備に取りかかっていた。
きびきびと彼らを統率していた男は、立ち尽くすアンリとミロに気づいて振り返った。 そして、大股で二人の元へ歩み寄る。

「お前達、大丈夫か」
「え? まあ、はい・・・」
「・・・」

男は 「怪我はなさそうだな」 と言い、にやっと笑った。 軍人らしい強面に浮かんだ笑顔は、泣く子も黙りそうな迫力だ。
彼は、数日前にアンリが取調べを受けた城の警護責任者だ。 濃い茶色の髪を短く刈り込んだ男の名は確かリヴェラと言ったか。

「・・・リヴェラさん、でしたっけ。 捕まってる兵士さん達とあの魔導師とは知り合いだったんですか? 今の状況がさっぱり分からないんですけど」
「そういえば、お前達は何も知らされていないのだったな」

男は、決まり悪そうに頭を掻いた。

「お前たちとここに来た兵士達は、執務長官の配下の者なんだ」
「執務長官? ルシウス様のことですよね?」
「そうだ、最初にこの作戦を提案してきたのは彼だ。 今回のことではっきりしたが、彼はシェリーナ姫誘拐事件の協力者だ」
「え・・・」

彼が言わんとしていることを理解するまで、数瞬を要した。 翡翠色の目を丸くしているアンリに、男は続ける。

「実行犯の目撃者であるお前が邪魔だったんで、あの女に引き渡そうとしたんだろう。 そうすれば、両方に利益があるからな」
「あの女は魔力の強い者を選んで、誘拐しているんでしたっけ・・・? でも、ルシウス様がなぜ、あの女と手を組んだりなんか・・・」
「実はな、前々から彼には謀反の疑いがあったんだ。 誘拐への協力も、その一環だと女公閣下はお考えだ。 だが、これまで我々女公側には証拠を掴む機会がなかった」

話が見えてきて、アンリは整った眉を思い切り顰めた。

「てことは・・・今回は絶好の機会だったというわけですか? 僕達は、女魔導師だけじゃなく、ルシウス様も釣るための囮だったってこと?」
「そういうことだ。 お前達が城を出て、俺達はその後ろを密かにつけてきていたんだ。 不審な動きがあれば対応できるようにな」

「・・・二重の囮役だったんですね」 と脱力したアンリに、リヴェラが苦笑する。

「まあ、お前達が執務長官側の人間かもしれないという可能性も少なからずあったからな。
 こちらとしては、どう転ぶか最後まで分からなかったから、こういう措置を取った。 危険な目に遭わせて悪かったな」
「なるほどね。 仰る意味は分かりました。 納得は全然できないけど」
「・・・相変わらず減らず口だな、お前は」
「お前、じゃなくてアンリです。 ちゃんと名前があるんで覚えてくださいよ」
「分かった分かった。 で、そこの男、名前は?」
「ミロ」

簡潔に名乗った長身の男に、彼は鳶色の目を鋭く細めた。

「ミロ、ね・・・お前の戦いぶりを見たが、大変な手練のようだな。 なのに、なぜ魔導師に止めを刺さなかった? お前ならできたはずだ」
「・・・相手に戦意がないと判断した。 女が逃げようが、俺の知ったことじゃない」

返されたミロの低い声に、微かな皮肉を感じてアンリは少々たじろいだ。
感情を露わにしない彼がこんな物言いをするのは珍しい。

「確かに、取り逃がしたのは俺の責任だ。 責めるような言い方をして悪かった」

リヴェラは思いのほか素直に非を認める。
その時、アンリははっと顔色を変えた。 女魔導師が去る直前に口にした言葉が蘇る。
確か、彼女は────

「そうだ・・・あの魔導師、また誰か攫うつもりかも!
 逃げる前に、『あの娘くらいは・・・』 って言ってたんだ。 それってさ、僕を連れて行けなかったから、『あの娘くらいは攫っていく』 ってことじゃないかな? そんで、狙われやすいのは・・・」
「・・・魔力の大きい者、だな」
「うん。 そして、魔力の強さならこの辺りでシェリーナ姫に並ぶ者はいない。 ・・・ってことは」
「姫が狙われる可能性があるかもしれない、と言いたいのか?」
「そうですよ! ・・・早く城に知らせないと!」

すぐに駆け出そうとしたアンリを、男が 「ちょっと待て」 と止める。

「近くに馬が繋いである。 それで行った方が早いぞ」
「えっ、どこ!?」
「だから、待て。 お前だけ行っても城門で兵に足止めされるはずだ。 俺も一緒に行こう。 ・・・ミロはどうする?」
「もちろん、行く」

アンリは、翡翠色の目を丸くしてミロを見つめた。 しかし、彼は視線を逸らせて斜め上の木の枝の方を向く。

「俺は部下に撤収を指示してくる。 お前達、ちょっと待ってろよ」

リヴェラは二人から離れた場所で、兵士達に命令を出し始めた。
アンリとミロの間に微妙な沈黙が降りる。 数瞬の間があって、躊躇いがちなアンリの声がそれを破った。

「一緒に来てくれるの?」
「ああ」

男は僅かに頷いた。 夜色の瞳が再びこちらを向けられる。
その時、リヴェラが二人に 「ついて来い」 と身振りで示した。
・・・そして、数分後。 開けた場所に繋がれていた馬の縄を解き、三人はそれぞれの背に飛び乗る。 闇に覆われた森で、高いいななきを上げた三頭の馬が疾走を開始した。



────それよりほんの少し前。 サンティに近い森の端で、生い茂る木々の間に彷徨う闇が歪んだ。 その揺らぎの中から、黒衣の女が出現する。

「はぁっ、はぁっ・・・」

荒い呼吸を繰り返して、夜露に濡れた草の上に女は膝をついた。
失った手首から押し寄せる激痛に美しい顔が歪む。

「・・・血を・・・止めなくては、魔力が」

苦痛に耐え、鮮血で染まった傷口に力を集中させる。
ふっと、小さな光の粒が手首の周囲に灯った。
数を増やしながら明るさを増す燐光は、次第に手の輪郭を形成し────その内側から、半透明の白い掌としなやかな五本の指が姿を現し始めた。
ほっそりとした滑らかな手が次第に不透明さを増し、やがて完全な実体を得ると、その周囲に漂っていた光の粒子は四方に弾け飛んで消滅していく。
女は長い息を吐き出した。 痛みも失血も、止まった。
再生した掌や指をゆっくりと動かす。 感触を確かめるように。
今はまだ、痺れに似た感覚があって上手く動かせない。 けれど、数日したら元通りに馴染むだろう。 経験から女はそれを知っていた。

「さて・・・こんな目に遭わせてくれたルシウスには、どう責任を取ってもらおうかしら」

彼女は薄青の瞳を鋭く細めた。
立ち上がった女の足元は、まだふらついている。
体力と魔力までが完全に回復したわけではないが、大人しく引き下がるつもりは毛頭なかった。
女は精神を集中して魔力を放出し、空間を捻じ曲げる。 そして、その中へと姿を消した。
消える直前、彼女が見上げた暗い夜空には巨人のように聳える漆黒の影。
公都の象徴、サンティの城であった。



* * *



────城内は、半年に一度開かれる女公主催の晩餐で華やいでいた。
数百人がゆうに座れる大きさの広間には、着飾った招待客が一同に会している。
イディア女公と、彼女の傍らに控えるルシウスが姿を見せると、彼らは優雅に礼を取った。
さざめく客を見渡して、女公は艶やかな笑みを浮かべる。
有能な側近とその主という仮面を完璧に保ったまま、彼らは寄り添うように着席した。 二人の間に漂う、どこか張り詰めた空気に気づく者はこの場にいないだろう。
今夜、互いを欺いた彼らは、定例行事を中止していらぬ憶測を呼びたくない、という点で思惑が一致していた。 何しろ、招待客はサンティ近郊に住む有力貴族達である。
一番奥に着席した女公に、執務長官のルシウスは小さく囁いた。

「そろそろです、閣下」
「ええ」

頷いたイディアが、晩餐の開始を告げるために花弁のような唇を開きかけた時。

「・・・・・・晩餐会、ですって? 呑気なものね」

嘲りを含んだ女の声が広間に響いた。
全員が声のした方を振り向く。
ぴたりと閉ざされた広間の入口に、一瞬前まではそこに存在しなかった女が佇んでいた。
漆黒のマントを纏い、禍々しい気配を放つ女の血色のない顔には、赤い飛沫が飛び散っている。
その異様な様子に招待客は慄き、近くにいた者から悲鳴が上がる。
薄青の髪を振り乱して、女は高笑いした。

「ねえ、そこの男。 そう、ルシウス、あんたよ」

女は血に濡れた手で、驚愕に目を見開く男を名指しする。

「あんたは女公に気づかれていたのよ? 私と取引してるってことに。
 お陰で私は怪我まで負わされて。 どうしてくれるの?」
「・・・・・・その女が言っていることはでたらめだ! 何をしている衛兵、侵入者を捕えろ!」

驚愕から立ち直ったルシウスが、叫ぶように号令した。
弾かれたように、数人の兵士達が剣を抜いて女に走り寄る。
女の手に光が宿った。
そこから放たれた氷の刃に、数人の兵士が吹き飛ばされる。
複数の悲鳴が上がり、椅子を蹴立てて逃げる者達で広間は混沌と化した。

「女公、こちらへ」

衛兵に腕を取られ、はっと我に返った女公は、彼らに守られて女から最も遠い位置にある扉へと向かう。
彼女の目の端にルシウスが映る。
同様に衛兵の背後に守られていた彼は、広間に響いた女の言葉に振り返った。

「ルシウス、あんたに簒奪させようとした私が馬鹿だったわ。 最初からこうすべきだったのよ」

真っ赤な唇を歪めて、女は白い手をかざした。
彼女の前にどす黒い穴が生じ、そこから大型の猫に似た漆黒の魔獣が次々と現れる。

「じゃあ、皆さんごゆっくり」

女は赤い唇を笑みの形に歪め、悲鳴と怒号が飛び交う広間からふっと姿を消した。



夜が深まる公都を駆け抜ける三頭の馬に、人々は恐れをなして道を空けた。
疾風のような速度で城門まで辿りついた三人は、足を止めた馬から即座に飛び下りる。
城門を守る兵士に、リヴェラが二、三言声をかける。 重い城の扉は、すぐに開かれた。 彼は自分で言っていた通り城内にかなり顔が利くらしい。
三人はシェリーナ姫の居室に向かおうと足を早めた。 けれど、城内の異変を感じて立ち止まる。
次々と城から飛び出してくる貴族達。 悲鳴と剣を振るう音、そして、聞き覚えのある咆哮は────

「ミロ、あれって・・・」
「・・・・・・魔獣だ」

顔色を変えたアンリと、ミロの呟きに、リヴェラは信じられない、という面持ちで呻く。

「馬鹿な・・・このサンティの城で魔獣だと?」
「でも僕達、一度魔獣を見たことあるんだ。 間違いないよ」
「・・・あの奥では、今、女公閣下主催の晩餐が開かれているはずだぞ」

リヴェラの厳しい顔が更に険しくなった。 一瞬、何を優先すべきか逡巡した彼は、けれども素早く決断を下す。

「仕方ない、ここで別れよう。 お前達は、先にシェリーナ姫の所へ向かってくれ。
 俺は、女公と招待客を守らなくてはならない」

一息にそう言うと、彼はアンリに視線を向ける。

「アンリ、お前は姫の居室に何度か行っているだろう。 自分で行けるか?」
「うん、大丈夫だと思う」
「では、呼び止められたら俺の許可を貰ったと言ってこれを見せろ」

男は軽防具の隙間から覗く襟元の紋章を剥ぎ取って、アンリに渡した。

「警護隊長のリヴェラと言えば大抵の人間に通じる。 気をつけろよ」
「ありがとう! 行こう、ミロ」
「ああ」

広間から聞こえる狂乱を背に、二人は薄暗い廊下を走り出す。
途中、慌しく広間へと向かう衛兵に誰何の声を投げかけられた。
だが、リヴェラの名前と紋章によって通過を妨げられることはなかった。
魔獣の出現に気を取られていた兵士達に、二人を詮索している余裕などなかったのだろう。
そうして、人気の少ない東の区域に彼らはようやく到達した。
そこでアンリは絶句する。

「これって・・・」

廊下には、数人の衛兵が気を失って倒れている。
アンリの足元で、氷の破片が軽い音を立てて砕けた。

(この魔法は・・・)

凍傷になりかけた首筋が、ずきりと痛んだ気がした。 あの女魔導師は、やはりここに来ている。
二人は目配せを交わして、再び走り出した。



* * *



東の塔の最上階、第一公女の居室は、その主以外に今は誰もいなかった。
侍女はもう下がらせてある。
シェリーナは、寝台の横に飾らせた鉢植えの薔薇にそっと触れた。
若草色の葉に、白く細い指を滑らせる。
以前は度々出席することもあったが、彼女は今日の晩餐の席に付くことを許されていない。
両親がまだ城に揃っていた頃は、彼らの居室にほど近い部屋を与えられ、公務を終えた母や父と度々時間を供にする事もできたのに、今はそれすらも叶わない。
やはり母に疎んじられているのだろうか、と考えて、少女の気持ちは沈んだ。
そっと溜息をついて、少女は寝台に潜りこもうとする。

「・・・!?」

恐ろしい気配に、少女は振り返った。

「あら、数日しかたってないのに、随分と魔力が安定したようね」

今まで彼女一人だった居室に忽然と姿を現した黒衣の女。 彼女は、その薄氷のような色彩の瞳をすうっと細めた。

「まあ、私には関係ないけど。 さて、今度こそお前を連れて行くわ」
「・・・いやっ」

恐怖に顔を引き攣らせた幼い少女が、二、三歩後退する。
その肩に小さな植木鉢が当たって、カタン、と小さな音を立てた。

(アンリ・・・!)

脳裏に、魔法を教えてくれた師の顔がよぎる。
少女は背後の鉢に小さな掌を添えた。
何か考えがあったわけではない。
ただ、藁にも縋りつく気持ちで、彼女はありったけの魔力を流しこんだ。

「地の魔力よ、わたしに力をかして・・・!」

・・・するすると微かな音を立てて、鉢から伸びる細い茎がありえない速度で成長していく。
魔導師の美しい顔が驚愕に歪んだ。
その薄青の瞳には、無数に枝分かれした薔薇の蔓が、少女を守る繭のように彼女を包んでいく光景が映っていた。

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